百年の計







今の日本には「百年の計」たるヴィジョンがない、とよくいわれている。それ以前に、日本には百年まで行かなくとも、中長期的な視点からのヴィジョン自体が常に欠けていた。たとえば日本中がバブルに踊っていたとき、バブルが崩壊するとは、誰も真剣には思っていなかった。理性的に考えれば、ああいう状態が未来永劫続くことはあり得ないことは理解できるはずだが、誰一人として考えていなかった。日本の社会というのは、そもそもそういう体質なのだ。

そういう気風にどっぷり浸ったヒトにとっては、「十年先のコトもわからないのに、百年の計など考えるコトはできるのか」ということになる。確かに、「右肩上がりの近代社会」にどっぷりと浸っていた間は、この繁栄がいつまで続くのか、どこまで伸びるのか、予想することもできなかった。また、予想する必要もなかった。しかし、その幻想が崩れ去った21世紀になってみれば、実は百年先のありようを見通すことはそれほど難しくはない。

19世紀、20世紀という「近代」自体が、人類史上の「特異点」であり、偉大なるバブルだった。人類の将来を考えるためには、まずこの視点を持つことが重要になる。近代こそが「特殊」であると捉えれば、近代以前と近代以降は極めて連続的であることがわかる。この考えを元にすれば、未来の予測はたやすい。我々自身が、20世紀的な近代社会にどっぷりと浸っており、「近代社会こそが人類社会のあるべき姿」と思い込んでいることが間違いの元なのだ。

統計処理をする場合に、特異点や異常値を外して計算することで、近似式の精度を高めるやり方がある。「近代」をどう捉えるかも、これと同じコトだ。「近代」のまっただ中にいるときは、「近代」を度外視して未来を予測することはできない。だからこそ予測が難しかった。21世紀に入り、「近代」自体を相対化して見ることができるようになった今だからこそ、キチンと将来を見渡すことができる。

たとえば、日本をはじめとする先進国で「少子化」が進行している事実は、よく指摘されている。右肩上がりだけを是とする「近代的価値観」からすれば、人口でもなんでも「減る」ことは罪悪になってしまう。したがって、ほとんどの場合「少子化=悪」「少子化=問題」という文脈になっている。しかし、長期的なヴィジョンに立ったとき、人口が減ることが本当に悪いことなのだろうか。これも、近代の「右肩上がり主義」に毒されているだけなのではないか。

たとえば、江戸時代の日本においては、自給的経済構造が成り立っていたため、人口は長らく3000万人程度で均衡していた。人口の増加は、明治以降の「近代社会化」が進んでからのコトだ。それでキチンと社会は成り立ち、ヨーロッパにジャポニズムを生み出したような「高度な文化」と、明治以降の経済成長を担保した、資本と技術の蓄積がなされていた。西欧的価値観とは異なるものの、ある意味で明治以降の日本より、よほど文化的には進んだ社会がそこにはあった。

そういう意味では、現在の1億数千万人という人口自体が、日本列島という地理的条件を前提とするなら「大バブル」ということもできる。世界でも例を見ないほどの人口密度の高さをはじめ、食料自給率の低さ、エネルギーの多量消費など、日本が抱える多くの社会問題は、この「必要以上に人口が多い」というところから引き起こされている。明治以降の人口増は、メリットよりデメリットの方が大きかったが、経済の右肩上がりがそれをゴマかしていたということもできる。

本来、日本のあるべき姿とは、そういう江戸時代の社会にモデルがあるのではないか。今では、当時とは比較にならないほど農業の生産性が高まっている。したがって、現在の技術を前提にするなら、少なくとも6000万人程度なら、基本的には自給することも可能だろう。もちろん、全てを国内生産だけで賄うのは無理だろうが、バランスという意味では、かなりいい姿になるだろう。そういう意味では、日本が文化的で経済的にも「筋肉質」の国になるには、そのぐらいの規模が最も適切なのだ。

ましてや、世の中は情報化が進んでいる。情報化が進むということは、ヒトやモノに関する不必要な移動を節約できるということだ。移動や物流に必要となるエネルギーは、人口の減少以上に縮小できるようになるだろう。まさに、人口減少社会は、エコロジカルな省エネ社会なのだ。エネルギーを浪費するものが人間自身に他ならない以上、人間が減ることが最も地球のためになることはいうまでもない。

今に日本では、この人口を維持するために「為にする」ことが多すぎる。そういうムダも一切省くことができる。過剰な出店がなければ、過剰な生産もない。過剰な生産がなければ、過剰な在庫も、過剰な投資も生まれない。今の日本社会は、成人病にかかったような、溢れんばかりの贅肉のついたカラダなのだ。これが、バランスの取れた、筋肉質のカラダに生まれ変われば、活力も生まれる。それは、量より質への転換を促す。経済ではなく文化で評価される社会だ。

こういう価値観は、お題目としてはよくいわれるが、そこへと脱皮するには、まず近代というバブルの負の遺産を一掃することが前提なのだ。バブルは崩壊する。崩壊すれば、どこかに収束する。その均衡点さえ見えているなら、ソフトランディングすることは決して難しくない。人口が半減した、エコロジカルで文化的な社会。近代を脱ぎ捨てた未来の日本はこうあるべきだ。そしてそれは、歴史に学ぶべき日本の伝統そのものではないか。未来は「縮小均衡」からこそ生まれるのだ。




(04/12/03)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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