群れる罪






ご存知のように、なんとしても日本には、群れたがるヒトは多い。それは群れたがること自体が、個人の責任を曖昧にし、「寄れる」大樹を相互に作ることにつながるからだ。かつての「55年体制」が、自民党と社会党が、対立するようなフリをしているものの、その実、互いに背中を支え合うことで、寄りかかり合って楽できる体制であった。このように、相互に支え合うことで、何もないところから「寄らば大樹の陰」の大樹を作ってしまうことができる。だから群れること自体の中に、無責任ヘの指向を見て取れる。

さて、先ごろ「スーフリ事件」についての判決が出た。当時はワイドショーや週刊誌で取り上げられまくった事件だが、この「スーフリ」の行動には数々の問題があるが、その中でも一番の罪は、「集団でやった」という点である。そこには、明らかに責任を曖昧にし、責任から逃れようという指向を見て取れるからだ。「スーフリ」とは、いかにも日本的な「無責任集団」だったのだ。個別の「やったこと」に対する罪状もさることながら、それを最初から責任逃れを前提とした「無責任システム」をビルトインした組織でやろうとした「罪」は、なによりも重い。

すでに何度か論じたコトだが、集団で群れることにより無責任化を図るには、二つの方向がある。一つは、組織内部の構造的問題として「無責任」体制を作ろうというもの。日本の組織論そのものの、個人だと明確になる責任を、組織の中で曖昧にしてしまおうというやり方である。これは、不祥事や欠陥商品などで世間を騒がす、日本の問題企業によく見られる症候群だ。このような日本型無責任組織では、親分と子分という役割分担がつきものである。しかし日本型組織で親分と子分というのは、そもそも親分が責任を取らず、ましてや子分が責任を取るわけもないという、無責任の共有化のためのシステムなのだ。

これは、いままでの分析においては、いわゆる「天皇陛下待望論」と分析したものである。さて、当然スーフリでも親分と子分がいた。当然子分は、「親分に命令された、親分の命令は絶対だった」というだろう。その一方、親分は「子分が勝手にやった」という。これは、多くの企業不祥事で繰り返された発言から明確だし、オウム真理教も大同小異である。みんな、そもそも責任を取る気はなく、責任を曖昧にするために、親分と子分、という役割を作ってっているのだから、当然といえば余りに当然だ。

もう一つは、外部との関係性の問題。責任関係が明確になる「個対個」の関係を作らせず、常に「組織対個」の状態にすることで、責任を逃れようというものである。これは、日本の官僚機構に典型的見られる無責任構造だ。そもそも組織は、生身の人間とは違い、感覚も意志も持たない、観念的・抽象的な存在である。「組織がやった」ということは、実はあり得ない。組織の中の個人がやったことには間違いない。それを「組織がやった」コトにしてしまったとたん、責任を取らせるべき相手は目の前から消えてしまう。

責任を取る上では実体のない「組織」を前に立て、その構成員である個人がその陰に隠れて「匿名化」する。高級官僚が、2年ごとにその肩書を変えるのも、責任を問おうとしても、肩書には責任を取らせられないし、そのときには直接の責任者たる個人は、すでに別の肩書の隠れ蓑を着ることで、責任を問われないシステムを作れるからだ。これこそ、外部から見て、究極の「誰に責任を取らせればいいかわからない」状態である。これまた、日本の組織においては、多かれ少なかれ、どこでも見られる。

さて、世の中には、千人斬りを豪語する「コマしキング」のジゴロも少なからず存在する。彼らの行動の中には、確かに強姦まがいのプロセスを経たものもあるだろう。その範囲においては、スーフリの事件と似た要素もある。しかし、それが結果的に問題にされないのは、ジゴロ氏は、あくまでも「個と個の関係」の中で、自分が最終的に全ての責任を負う姿勢を示しているからだ。そうでなくては相手も納得しないし、責任を負う姿勢を示せば、相手も自分にも結果に対して何らかの責任があることに気付くことになる。

ある意味で、自分が責任を負うということは、顔に「俺は危険だよ」と書いておくのと同じことなのだ。羊の皮を被ったオオカミではなく、狼の皮を被ったオオカミということ。当然、引く相手は引く。「それでもOK」というからには、相手との間で、それなりの合意なり、それなりの覚悟なりがあったといわざるを得ない。だが、集団を前面に出し「組織対個」で当って行くと、「個対個」の場合には出てくる「責任の緊張感」が薄れ、実際には危険だし、そこに行くこと自体にも責任があるのだが、それを感じさせないことになる。

これは、騙し以外の何物でもない。ここが最も罪なところだ。組織ではできても、個人ではできない、気の弱い日本人。組織のカサをきて、責任を逃れることで、自己責任ではとてもできないことをやる。これこそ、人間として最も恥ずべき行為だ。これが、大多数の日本人の持つ、一番汚く卑しい性格なのだ。まさに、中央官庁の官僚や不祥事企業の社員がやっていることは、これと同じ。本来なら無責任の罪で、刑務所送りになるべきだ。彼らは、スーフリのメンバーと変るところがない、犬畜生にもおとる人間だということを、充分に知る必要がある。




(04/12/17)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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