パッシブ・コンシューマの世代






前々回のこの項では、「おたく」と「オタク」の違いについて論じた。しかし、この変化は決して特殊な傾向ではなく、むしろ世代間の一般的な意識や行動の違いが、ことさらこの分野に現れたものと考えるべきだろう。純粋消費者への指向が強まる変曲点は、今の30代半ばぐらいのところにあり、それ以上の世代とそれ以下の世代との違いは際立っている。したがって、これはこと「おたくアイテム」にだけ見られることではなく、もっと一般的な消費行動においても共通にみられる傾向である。

それは、より一般化して言えば、「やるヒトと見るヒト」の分離ということになる。スポーツなどでいえば、プレイヤーと観客の分離。エンターテイメントでいえば、クリエイターと消費者の分離だ。この傾向は、スポーツや音楽など、エンターテイメント・コンテンツの分野が代表的ではあるが、それだけでなく、ファッションや流行の作られ方にも共通している。送り手の側と受けての側が、不可分に結びついているのが30代半ば以上の世代とするなら、それが完全に分離し(ある種の不作為の共犯関係はあるかもしれないが)ているのが30代半ば以下の世代なのだ。

野球やプロレス等、一部の大衆プロスポーツを除き、かつて日本においてはスポーツ観戦に行くヒトは、趣味でプレイするアマチュアスポーツマンでもあった。音楽においても、洋楽のロックバンドのライブを見に行くヒトは、自らアマチュアバンドをやっている層とオーバーラップしていた。これらのメインユーザは、送り手と受け手の間が連続性が高い「アクティブ・コンシューマ」なのだ。彼ら・彼女らは、スタジアムやコンサートホールでは観客だが、同時にスポーツ用具や楽器のユーザーでもあった。

これに対し、「自分は受身で消費するだけ」というヒトは「パッシブ・コンシューマ」である。その場合、送り手と受け手の間には構造的な違いがあり、相互の役割は交換不能だ。スタジアムに見に行く観客は、決してピッチの中でプレイすることを望まないし、夢見ない。だからこそ、ゲーム機でプレイするサッカーゲームは、プレーヤーの視点ではなく、あくまでもテレビ中継を見る観客の視点をベースにしている。しかし、これは性癖の違いであり、どっちがいいとか、どっちが正しいとかいう問題ではない。

逆にマス・マーケティングという視点から見ると、アクティブ・コンシューマーは決して「組しやすい顧客」ではない。マーケットがアクティブ・コンシューマで構成される限り、市場のマス性には上限が生じる。80年代の「バンドブーム」のように、市場が膨らむだけ膨らめば、それなりに「マス性」が出てくることもあるが、それでも「バンドをやるヒト」よりは、「バンドをやらないヒト」の方が、圧倒的に多数である。とにかく、難しいことをいわずに買ってくれるターゲットの方が、マス・マーケティングという視点からはオイシイのはいうまでもない。

パッシブ・コンシューマという、新しいマス・マーケットの創造。この点こそが、90年代半ば以降、団塊Jr.がいわゆるF1・M1層に入ってくると共に起った社会変化の本質だ。これは、消費マーケットという意味では間違いなく活性化をもたらした。90年代における、ミリオンヒットCDの連発。スニーカーやジーンズなどに代表される「プレミアムもの」のブーム。2002年ワールドカップでの、にわかサポーターの能天気な盛りあがり。団塊Jr.を代表とする「パッシブ・コンシューマ」がヴォリュームゾーンにならなければ、いわゆる「失われた10年」は、もっと景気低迷していただろう。

しかし、その一方でパッシブ・コンシューマの増加は弊害ももたらした。たとえば、プロスポーツ界で起っている、「選手層の薄化」「限られた才能の多種目への分散」といった問題は、この現象と裏腹である。極少数のトップレベルの選手についていうなら、その数やレベルは昔と変らない。それどころか、昨今は、幼少時からのエリート教育が功を奏して、昔よりもレベルアップしているといった方が正しいだろう。しかし問題は、そういう「スーパーエリート」だけが、特異点のように存在しているところにある。

オリンピックの金メダルのように、個人競技ならば、それでもさして問題ではない。格闘技でも、2大ライバルが切磋琢磨すればいい。しかし、こと「チーム競技」は厳しい。「日本代表チーム」が作れても、その競技の国内リーグが作れないことになる。選手の才能のない人材を集めて、レベルの低い国内リーグを作ってしまったのでは、競技全体のレベルが低下する。前に述べたように、昨今のプロ野球の問題も、ここから生成している。

このまま、パッシブ・コンシューマばかりが増え続けると、国内での「送り手」の再生産が難しくなっている。そうなったとき、彼ら・彼女らの旺盛な消費欲を満たすには、大リーグ、ハリウッドといった、グローバルコンテンツの輸入しか解決策がなくなる。20世紀までの「近代社会」のような、「モノ作り」の時代は終わった。これからは、グローバルレベルでの付加価値の創造が、その国や民族のプレゼンスやステータスを生む。文化を作り出さなくては、一流の存在ではない。消費者だけの国になってしまってはいけない理由がここにある。

とはいうものの、団塊Jr.世代がこれから変るとは思えない。彼ら・彼女らには、せいぜいそのヴォリュームを活かして、今後とも純粋消費者たる「パッシブ・コンシューマ」として、国内需要拡大に貢献してもらおう。その親たる団塊の世代を含めて、その代わりにやって欲しいこと。それは、次の世代から出てくるであろう、優秀なクリエイターたちの「足を引っ張らない」ことだ。幸い彼ら・彼女らは、他人の行動には無関心なので、そういう意味では案ずるより生むが易し。見えざる神の手の思し召しは、意外とウマく行っているのかもしれない。

その上で社会全体としてなすべきことは、「才能」を評価する社会になることと、「汗をかくだけのムダな努力」を評価しない社会になることだ。才能を持つ人間を大切にするためには、努力だけ結果がなくても評価する視点をヤメるコトから始まる。それには、才能を持っているかどうかは、ヒトによって決定的に異なること、才能の差は後天的にはどうしようもないことを、キチンと認識することがカギになる。才能の差を認めることは、差別でもなんでもない。悪平等を押しつける方こそが差別なのだ。



(04/12/24)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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