天命に従う








2004年は大災害が地球を襲った年だった。水害、地震、津波。年間を通して災害の悲報がトップニュースとなった。それと共に、災害にまつわる周縁的な情報も多く流れた一年だった。特にワイドショーや週刊誌では、大災害時にどうやって助かるか、どうやったら生き残れるかという、ハウツー的な視点が目に付いた。そもそも人間は、死ぬときは死ぬし、助かるときは助かる。それは天命であり、逆らうことはできないのだ。運命とは、小手先の小技でゴマかせるようなモノではない。腹が据わっているかどうかは、この「天命を素直に受け入れ、従えるか」にかかっている。

しかし、日本の「甘え・無責任」な大衆は、「他人はどうなっても、自分だけは助かろう」という虫のいい算段にすぐ走る。災害に対する大衆的関心のベクトルが、それを示している。あたふたと泥縄のような対応策をするよりも、本来なら「いつでも死ぬ決意ができるための心構え」の方がよほど重要である。そういう精神を持てば、おのずと肝っ玉が据わってきて、いざ緊急の事態が起ったときにも、慌てず客観的に情勢を判断する余裕もできる。結果的には、何とか助かろうとあたふたするよりも、命を捨てた気になった方が、助かる可能性も高いというものだ。

どうしたら、天命に従えるか。どうしたら、運命を受け入れられるか。それは宗教心である。神様でも、お釈迦様でも、阿弥陀様でもいい。人間を超越した存在をとらえ、自分の生きる道は全てその超越した存在により決められていると思えるかどうか。そここそが、本当の意味での「生き残れるか、生き残れないか」の境目である。多くの日本の大衆にとっては、こういう宗教心がない。官と民はあっても「公」という発想がないのも、この宗教心のなさに基づいている。

だから、自分こそ絶対的な存在となり、私利私欲を追求することになる。自分さえ良ければ、何でもアリ。自分は良くても、天が許さないという発想はない。鬼のいぬ間の洗濯、旅の恥はかき捨てになるのも、こういう絶対存在を認めていないからだ。となりの眼や、鬼の眼はゴマかせても、常に天の眼が光っていると思えばれば、絶対にゴマかすことなどできない。これが宗教心である。日本の大衆が「甘え・無責任」に走る理由の一つは、この「宗教心のなさ」にもとめることができる。

西欧近代社会について、「自立した個」がベースになっているとよくいわれる。しかし、必ずしも欧米人の全てが、「自立した個」を確立しているわけではない。ヨーロッパは階級社会なので、上層階級に属する人たちは、その成長過程において、「自立した個」であることを求められ、それを確立していることは確かだ。しかし、一般大衆は違う。それは欧米諸国でも、しばしば大衆がマス・ヒステリー的な行動に走ることからも理解できる。ドイツ人が「自立した個」ならば、ナチスは出てこないだろうし、911以降のアメリカも今とっているような政策はとらないだろう。

しかし、ある種の社会秩序が成り立っていることも確かだ。それは、個々人が自らの力で自らを律することによるのではなく、宗教的なバックボーンに基づいて、天命に従うことにより禁欲的な自己規制を求められることによって自らを律しているからである。主としてそれはキリスト教が中心となっているが、多民族・多宗教を認めているアメリカでもそのメカニズムが機能している以上、特定の宗教でのみ可能というものではなく、宗教一般に求められる機能であるということができる。だからこそ無宗教のヒトは、そういうモラリティーの欠如したヒトとして白眼視されるのだ。

そういう意味では、大衆が規律正しい行動をするには、個々人を超越した「存在」を担保する宗教か、社会そのものの中に相互監視のシステムがビルトインされていることが絶対条件ともいえる。この場合、宗教は唯一絶対な存在を前提とするものでなくてはいけない。それを神と呼ぼうが仏と呼ぼうが、絶対正義が存在するからこそ、ヒトは正しい道を進むことができる。したがって、八百万の神では宗教にならない。個々人の思惑に合わせた、ご都合主義的な解釈が可能だからだ。唯一絶対な存在が超越的に存在するからこそ、「甘え・無責任」な大衆でも、自らを律し、正しい道に進むことができる。

日本社会の現状の問題を、教育の問題に帰するヒトは多い。しかし、ことの本質はそんなところにはない。日本に限らず大衆とは「甘え・無責任」なモノであり、これを秩序だって組織化するには、宗教か相互監視のシステムが不可避なのだ。そういう意味では、江戸時代から明治期ぐらいまでの日本の伝統社会は、基本的に一神教的な意味では無宗教であったが、共同体による相互監視のシステムが効いていたからこそ、社会秩序が保たれていたということができる。これも一つの解決法である。しかし、一旦「無秩序な自由」を享受してしまった大衆に、監視システムを再構築することはいたって難しい。

となると、解決策は宗教しかない。それは、別に既存の宗派や教団に限るものではない。宗教的精神といおうか。この世には、個々人の意志や思惑を超えた「天命」が存在すること。それがある以上、自分の運命を受け入れ、精一杯それを生きることではじめて、自分に与えられた良き可能性も実現できること。これを人々が心の中に思い、信じることが大事なのだ。もっとも、この「信仰」を自力で築き上げることのできるヒトは、相当に徳のあるヒトに限られる。そういう意味では、一般の大衆にとっては、どの宗教でもいいから、深く帰依し信仰することが重要なのだ。日本復活のカギ、それは宗教にある。


(05/01/21)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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