制度と運用







ことその問題が「組織・人事」に関わるものについては、明文化された制度やシステムは余り意味を持たない。新しい制度を入れたところで、それが実効を持つわけではない。その「ココロ」を実現するためには、運用が変ることが必須だ。ことヒトの問題については、キモは運用にある。どんな制度を構築しても、それが生きるかどうかは運用次第だ。運用が変らなければ、制度が変っても実質は変らない。しかし運用を変えるより、制度を変える方が楽なので、そこだけイジって、改革を成し遂げた自己満足に浸るヒトが多い。

この数年で、年功給を廃止し、評価に基づくポイント制にした企業は多い。というより、ほとんどの主要企業で、このような改革が行われた。では、企業自体が変わったのかというと、そんなことはない。制度としての「年功給」を廃止しても、運用としての「年功給」がなくなるワケではない。ポイント制のポイントを、年功基準で査定すればいいだけのことだからだ。実際、こういう「実質年功制」になっている企業は多い。もっとも、年齢以外に差をつける要素がない、という職種が多いのも事実だが。

日本で成果主義がウマく機能していないのも、やはりこの制度と運用の罠にハマっているからだ。いつも語っていることであるが、人間は自分ができることしか、定量的に評価できない。能力が劣り、成果を出し得ないヒトでは、他人が出した優れた成果を、それがどのぐらいのものか客観的に把握できない。それが「スゴい」ことはわかるだろうが、どのくらいスゴいのかとか、スゴいヒトが複数いた場合に、どちらがどれだけよりスゴいのか、といったことは皆目見当がつかないだろう。

前に、部下より上司のほうが「バカ」だと、客観的な人事考課が不可能になることを揶揄して、ヒットした新書のタイトルをもじって「バカの壁」と称したコトがあった。その意味では、能力や実績ではなく、年功だけで管理者に登用する多くの日本企業においては、この「バカの壁」が圧倒的に機能してしまう。すなわち、評価者であるべき上司のほうが能力に劣り、結果、優秀な部下については、客観的な成果評価をやろうとしても不可能になる。

このように成果主義とは、評価制度の問題ではないのだ。それは、新しい評価のチェックリストやポイントシステムといった制度の問題ではない。いくら制度を入れても、それを使うべき管理者が「バカ」なら、成果主義による「評価」は永遠に無理だ。金を賭けずに麻雀をやっても、誰も儲からないのと同じ。確かに成果主義はグローバルスタンダードなのだが、グローバルスタンダードとはそもそも制度の問題ではないのだ。制度より運用というのは欧米では常識だからだ。

逆に制度を変えなくても、成果主義評価を容易に実現する方法はある。それは、能力も高く、実績も残している人間を順に、トップからズラりとそろえることだ。こうすれば全ての評価者は、被評価者よりも優れた能力を持つ人材により充当されることになり、「バカの壁」は解消する。既存の組織体系を温存する限り、運用は変らない。それでは、「仏作って魂入れず」である。運用を変えれば、制度というのは自然に変るものだ。ニワトリとタマゴではなく、改革には「順序」があるのだ。

さて、この「制度と運用」の問題は、人間廻りのシステムではどこでも起きる。たとえばプライバシーと情報公開の問題も、その一つの例だろう。制度としては、どんな例外もなく、個人の情報は全てディスクローズした方がいいに決っている。「隠している」ということは、「うしろめたいから、ウソをつきたい」ということと同値だ。マジメで善良に生きているヒトならば、公開されて困るような要素はどこにもないのだから、全てが公開された方がいいに決っている。

このように、個人情報の公開というのは、制度そのものとして悪いわけではない。したがって、監視カメラや盗聴といった「制度」にそのもの反対する人間は、後ろめたいところを持った、何か陰で悪いことをしている人間だと判断していい。しかし、「制度」ではなく、「運用」まで考えると、ちょっとハナシは違う。「徳」のある聖人君子が、全ての個人情報を把握し、蓄積するのであれば問題はないが、少なくとも現在の日本における運用を考えると、そうは行かない。

日本で個人情報が扱われる場合、そのデータは、人品卑しい極悪人である「官僚」が運用する可能性が高い。となると、その個人データを悪用するに決っている。そういう意味では、現状の「官僚システム」をそのままにして、そいつらに個人情報を扱わせる「運用」は許せない、という主張であれば良くわかる。これなど、現状の「人間系」の仕組みをそのままにしては、いかにいい制度でもマトモに運用されない、いい例ということができるだろう。

とにかく日本人は、制度と運用を峻別するのが苦手なのだ。制度だけ導入すれば、それで済むと思っているヒトも多い。これを悪用し、制度だけ入れても、運用面をそのままにすることで、結果的に既得権を温存するというテクニックも良く行われる。官庁系の「改革」は、ほとんどこの手のもの。族議員のお仕事も、ほとんど制度を変えても、運用面を変えないことで、新しいシステムを骨抜きにし、利権を温存するところにある。

そういう意味では、この手のヒトに関することは、本質的には全て「運用」が大事なのであり、「制度」は単なる形式上の問題でしかない。そこさえわかれば、ポイントは明確だ。守旧派に対してこそ、「制度」を変えないことを公約して安心させる一方、ヒトを入れ替えることで、「運用」を変えてしまえば、改革など一気に達成できる。郵政改革も、大事なのは「やる気と能力のある人材」が、業務をマネジメントできる環境を作ることだ。民営化はそのためのステップであるかもしれないが、目的ではない。適材適所の抜擢こそが、本来の目的のはずだ。



(05/02/04)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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