さよなら「多数決」






悪平等が大好きな日本の大衆は、何事にも「多数決」を好む。そして、多数決こそフェアなやり方だと信じて疑わない。しかし、多数決という決め方は、決して完璧なモノではない。数の多いほうを採用するということは、正解と間違いのある選択の場合、間違えたヒトの方が多ければ、そっちが正解になってしまうシステム、というコトである。ちょっと考えただけでも、「多数決の限界」というのは、すぐにわかるはずだ。

オマケに「難しい問題であればあるほど、間違える人が多い」というのは、世の常である。となると、高度な問題、複雑な問題ほど、「多数派=正解」となる可能性は低くなる。したがって、多数決が意味をなすのは、誰でも正解を知っているような問題か、そもそも正解などなく、どれを選ぶにしろ単に「好みの問題」であるような問題に限られる。そういう限定をつけるのであれば、「多数決」も悪くない。

そういう「多数決」がふさわしい典型的な例を考えてみよう。それは、「みんなで昼飯に何を食べようか」などという時だ。和食にしようか、イタリアンにしようか、中華にしようか。中華なら麺にしようか定食にしようか。あるグループがまとまってお店に行くには、なにか一つに決めなくてはいけない。「多数決」は、そういうテーマを決める時にこそなど最適な手法といえるだろう。

「多数決」が適切な方法かどうか微妙な問題としては、たとえば「正しいコトバ」の問題がある。「千円からお預します」とかいういい回しを「間違っている」と問題にするヒトも多い。しかし、それが大手を振って通用しているからこそ、問題にされるわけだ。そもそも議論の前提として、多くのヒト、それも多分過半数のヒトが意味を理解でき、通じているからこそ、そういう表現が使われているコトを忘れてはならない。意味が通じなかったら、問題にもならないはずだ。

これは会話に使われる、口語的表現である。基本的に口語であれば、意味さえ通じればそれでいい。正しいも間違っているもない。自然の多数決が働いているからこそ、コトバは時代によって変化するし、社会や環境の変化に対応した新しい意味やいい回しも、自然にとり込まれて行く。こと、コトバに関しては、問題にすべきは、本来「企劃」とかかなくては意味が成り立たない熟語を、「企画」とかいて済ませている厚顔無恥さの方だ。あきらかに「画」は間違いである。それは、漢字というものが、それ自体の中に歴史を背負っているがゆえに「正解」があり、何人もそれを否定できないからである。

「劃」と「画」とは、意味も成立の由来も、さらには読み方も違う文字である。元来日本語の読みでは、「画」にカクという音はないし、作りの「りっとう」がなければ、「カクする」という意味も出てこない。せめて偏が「画」で作りが「りっとう」というのなら、略字としてわからないでもない。この点、中国の簡体字は、さすがにこういう伝統をキッチリと押さえた作りかたをしている。それは、各字の持つ歴史を無視しては、中国語としてのその字の意味が出てこないからだ。

さらに、正解のある問題については、多数決は全く意味を持たない。最近学力低下が問題視され、いろいろなテストの正答率の低下が語られている。数学の難しい問題では、正答率が半分以下というものも多い。「多数決」が正しいとするのなら、もし皆が同じ間違いをしたら、そのときはそっちが正解になるのだろうか。悪平等の日教組なら、そういう教育をするかもしれないが、そうなったら、それは数学ではない。

さて、多数決が最もまことしやかに語られるのは、政治の世界である。選挙そのものが多数決だし、その選挙で選ばれた議会がまた多数決である。政治といっても、地方自治体レベルの行政ならば、その内容は基本的には生活サービス業である。したがって、基本的な問題は、「得られた税収入をどういうサービスに支出するか」ということになる。治安の維持にお金をかけるべきなのか、道路や環境の整備にお金をかけるべきなのか、教育にお金をかけるべきなのか、はたまた防災にお金をかけるべきなのか。これならば、先ほどの「昼飯問題」と大同小異なので、多数決で考えても問題ないだろう。

ところが、国政は違う。国の舵取りには、正解と間違いがある。国家を安全に維持しつづけることが国政の役割である以上、時と場合に合わせて、やるべきコトと、やってはいけないことがある。可能な選択肢の、どれを取っていいわけではない。この選択は、充分な情報を元に、充分なビジョンを持った上で、大局的見地から判断しなくてはならない。このような判断は、誰でもできるわけではない。

「決断」と「舵取り」が伴う判断には、並々ならぬ才能が必要となる。そしてこの才能は、持っているヒトの方が少ない。兼ね備えたヒトが、まさに「リーダーの器」なのだ。国政の決断は、こういうリーダーの器のあるヒトでなくてはできない。しかし世の中に「バカの壁」がある以上、大衆の多数決でリーダーの器にあるヒトを選び出すことはできないし、ましてや、政治的選択を多数決で決めるなど言語道断である。

よく似た例として企業経営がある。企業経営は多数決ではできないコトは、経営とはなにかを知っているヒトにとっては常識だ。多数決で動かす会社は、いつかはツブれてしまう。多数決では責任の所在が曖昧になり、リスクがとれないからだ。右肩上がりなら、それでも売上が上がるかもしれないが、安定成長の時代には通用しない。政治も同じコト。決断の要らない、「冷戦下の高度成長期」だったからこそ、多数決が通用したのだ。そんな脳天気な時期はもう終わった。もはや「多数決」の時代ではない。「賢者の選択」こそが、正しい道しるべとなる。



(05/02/11)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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