強者のエコロジー







エコロジーの本質は、意味のないリソースの消費をなくすところにある。だから、「環境保護運動」のように、なにか「積極的にエコロジカルなことをする」ことよりも、日常の活動の中にある「無駄」を徹底的になくす方が、余程実効性がある。現状を現状のままにして、ある種エクスキューズのようなスタンドプレイをやっても、無駄は無駄のまま残ってしまう。それでは、全く無意味である。

したがって、経済学的に考えれば、「最適化が達成」されれば、「もっともエコロジカルな状態」が実現することになる。世の中のエコ議論の多くが、この本質を見落としている。本当に地球環境のことをかんがえるなら、あらゆる面で「最適化」を実現し。そもそも社会的に存在している、いろいろな「無駄」をなくすことを目指すベキなのだ。そのためには、競争原理により、弱いもの、無駄なものの「淘汰」が実現しなくてはならない。

すばわち、「強者総取り」の実現こそが、もっともエコロジカルな状態の達成ということができる。強者への一元化が達成できれば、直接コストという面で一切の無駄を廃せるだけでなく、間接コストという面の無駄も最少化できる。エコロジーという面から判断する限り、弱者が、負けて撤退することになるのがわかっていながら、敢えて参入するという行動は、もっとも資源の無駄遣いということになる。

もちろん、強者総取りが実現してもなお、競争原理が働く必要はある。しかし、それはジャンル間の代替性で充分であり、ことエコロジーという視点から考える限り、一つのジャンルは一つの事業体による総取りが望ましい。たとえば、無線配信と有線配信とが競合することは健全性を保つ上で意味があるが、無線配信の中で何者も参入し泥仕合を繰り返すのは意味がない。単純に考えても、ネットワークや送信塔など、二重、三重に投資が必要となる。

「設備投資合戦によるGDPの拡大」という視点なら、それは意味のないことでもないが、こと環境を考えれば、それだけ無駄が増え、環境負荷が増えるということだ。消費者から見ても、短期的にみれば、一見ダンピング合戦で安く手に入ってメリットがあるように見える。しかし、事業が永続するためには、永遠にダンピング合戦を続けることは無理がある。あくまでも安さは短期的なものでしかなく、中長期的な視点でも最も安いコストにはならない。

とにかく、環境最適を実現するには、力がなくてはいけない。競争に打ち勝つ力。他者圧せる力。これがなくては、本当にエコロジカルなスキームは達成できない。世の中の環境議論にいちばんかけているのはこの点だ。多くの環境論者は、自分を弱者になぞらえて、同情を買うことを目指している。しかし、それでは何百年かかっても、真の意味でのエコロジカルな社会は達成できない。それは、あくまでも強者が全体最適を追求する中でしか得られないのだ。

正義とは力である。力なくして正義はない。平和を達成するのも力である。書生っぽい、青臭い議論では、絶対に平和を実現できない。他者を完璧に叩きのめす力があって始めて、平和を実現し、維持できる。力のあるものが、その力を私利私欲ではなく、人類全体、社会全体の最適化のために使ってはじめて、こういう高邁な理想は実現できる。だから平和主義を主張するなら、その当人が誰よりも強くなくては説得力がない。弱いものが平和主義を唱えても、負け犬の遠吠えで誰も聞かないだろう。

闘えば、誰よりも強く、圧勝であるにもかかわらず、あるいはだからこそ、それを封印する。これなら、誰が見ても納得性が高い。誰よりも、圧倒的に力を持つものが、誰よりも高い理想と徳を持つ。これこそ、「力と秩序」の両立である。安定はそこにある。平和もエコロジーも、ここにしかない。このためには、判官びいきではなく、弱者ぶるものは偽善として切り捨て、強者を正しく評価し、重視する社会を実現する必要がある。

弱者とは、他人に甘えることで、役得を得ようというスタンスだ。人間は、どこかヒトより優れた点、秀でた点がある。それは、必ずしも社会一般の高い評価を受けたり、金になったりするものではないかもしれない。しかし、他の人が持っていない何かは、必ずどこかにある。そこに自信を持ち、それを自分のアイデンティティーとすれば、そもそも弱者など存在しない。全ての人間が、この当り前の掟に気付いたとき、はじめて世の中からつまらない争いは消える。これこそ、最もエコロジカルな社会ではないか。。



(05/02/25)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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