著作権をとらえなおす(その2)






前回の二軸、四象限を用いて、現状の日本における著作権の取り扱われ方の問題点をみて行こう。著作権に関わる係争は、日本においては、図2のように、天才型著作物に対して人格権が、秀才型著作物に対して財産権が問われるケースが多い。曲の盗作に対して、利用を「差し止め」るケース。データの流用に対して、金を請求するケース。これは、日本において著作者が、自ら主張すべき権利のあり方をどう捉えているかを象徴している。

図2


しかし、グローバルスタンダードからすると、これは逆である。欧米では図3のように、天才的著作物に対しては財産権が、秀才型著作物については人格権が問われるケースが多い。曲の盗作に関しては、差し止めではなく、オリジナルの著作者も作曲者に加わり、応分の著作権収入が得られるコトを求めるケースが多い。一方、データ等の無断引用に関しては、その行為自体を差し止めるコトを求めるケースが多い。

図3


欧米型の係争事案は、それぞれのタイプの著作物を生み出した著作権者が、どうやって儲けるかというビジネスモデルと結びついている。したがって日本においては、この関係が腸捻転を起こしているということができる。このねじれというか誤解は、日本における著作権の長い歴史の中から生まれてきたものであると考えられるが、これに拘泥することで、折角のチャンスを狭めていることもまた確かである。ポイントは以下のような点である。

天才型著作物の著作者は、自らのインカムとしては、基本的に財産権により担保される著作権料収入しか期待できない。従って、あらゆる機会を利用して、著作物の利用を活性化し、著作権料収入を増やそうというモチベーションが働かせるべきである。パクりや盗作であっても、それがヒットし、そこで金がすでに動いている以上、その窃盗行為を問題にするのではなく、著作権料の分け前をガッポリいただいたほうがいい。

だから盗作問題とは、自分の著作物が盗作されたことに怒って訴訟に持ち込むのではなく、「そこからの収益を、オマエが一人占めするのはおかしい」と収益の応分の配分をを求めて訴えることなのだ。従って、落としどころは「金」次第ということになる。他人の著作物を利用して金を儲けておきながら、正当な分け前をよこさないことが「悪」なのである。ヒットしなかった盗作は、海外ではほとんど無視され問題にならない理由はここにある。

一方、秀才型著作物の著作者は、その著作物そのもの、あるいは著作物を利用した商品やサービスの販売にもコミットしていることがほとんどである。著作権料というのが、それを利用したビジネスの売上のパーセンテージを取るものである以上、その著作物を利用したビジネス全体のほうが、市場としては確実かつ圧倒的に大きい。となれば、著作権の利用目的は、同じ知的所有権である特許権や商標権と同じく、「競合者の排除と優位性の確立」ということになる。

だからこそ、直接に侵害された利益の補填だけではなく、権利そのものの防衛のために、相手の侵害行為そのものを差し止めることが必要になる。これを行うためには、権利利用の許諾を行う前提となる人格権が重要になってくる。天才型著作物が「使われてナンボ」なのに対し、秀才型著作物は、それを利用した商品やサービスが「売れてナンボ」の世界なのだ。この違いを理解することが、著作権関連のビジネスにおいて、チャンスをつかむカギとなる。

これは知的所有権といっても特許権の方だが、企業内での発明者の「対価」が争われた裁判は記憶に新しい。これも、特許権からの収益を考えると、単に「対価」の支払だけの問題で済ませるべき問題ではない。もっと、企業そのものへのコミットを求めてしかるべきだ。支払以上に、取締役としての経営への参加を求めたり、現金ではなく企業の株での対価の支払いを求めたりするほうが、よりその権利から自分が得られる収益を拡大できる可能性を秘めているからだ。

この天才型著作物と秀才型著作物における、財産権と人格権のズレが、日本の著作権意識のおかしいところだ。天才型著作物の著作者は、もっと著作権そのものから金を儲ける「ビジネス意識」に目覚めなくてはいけない。一方、秀才型著作物の著作者は、もっとその権利を拡大し、周辺にある金の流れを含めて我が物にすることが重要である。元をただせば、天才型著作者はビジネスに疎く、ビジネスにさとい人は著作者の心理がわからないというコトだろう。日本人のオリジナリティーとかクリエイティビティーとか議論する以前に、この点にもっとコンシャスになることが必要なのだ。



(05/03/25)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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