ヒトがコワレるワケ






この数年、メンタルヘルスの問題や、ニート・引きこもりの問題、キれる少年の問題等が社会をにぎわすことが多い。これらの現象を「結果」としてとらえ、「社会問題」として教育や社会にその原因を求めようとするヒトがなんと多いことか。しかし、同じ環境下で問題を起こすヒトも起こさないヒトもいる以上、これは突き詰めて行くと問題を抱えた個々人の内面の問題である。であるならば、その原因もまた、そういう人々の内面に求めるべきである。

そもそも、銀行に預金しておくだけでも利子のついた時代は過去のものとなり、リスクを覚悟しなくては資産は増えない時代となっている。ある程度の自己責任は、何らかのリターンを期待する以上、当然取ることを強いるの世の中となっている。そういう世の中では、「甘え・無責任」に生きたい人や、「甘え・無責任」でしか生きられない人は、耐えられないストレスを感じ取ることになる。昨今の個々人の内面の問題は、全てここから生じているのだ。

高度成長期における右肩上がりの経済成長の中では、それまでの農村共同体的な「貧しい社会」の常識をベースにして生きている限り、「甘え・無責任」にノホホンと生きることが許されていた。本当に許されていたかどうかはさておき、それでも甘い汁が吸えたことは確かだ。しかし、バブル崩壊、金融危機以降、そういう社会的余裕はなくなった。内面の問題を抱える人たちが増えたのもまた、そういう社会的余裕がなくなったからなのだ。

西欧近代から移入された市民主義、リベラリズムが正しいとする公正観。これが戦後の日本、20世紀後半の日本における、イデオロギー的な規範となり、いわば社会的なタテマエとされた。しかし、そのリベラリズムも、戦後日本では近代的な個が確立し得ない、「甘え・無責任」に生きる「共同体主義」の人たちが多数であったがゆえに変形した。平等主義、人権主義は、結局のところ悪平等主義となった。

形式的画一性を重んじることで、リベラルな民主社会を装いながら、みんなが「甘え・無責任」に浸れるオイシイ社会を構築した。だからこそ、出る杭は打たれる社会、自己責任で自分の判断にしたがってリスクを取りたいと思う人の足を引っ張る社会となった。右肩上がりの高度成長が続き、農村共同体的な価値観が再生産され続ける限りにおいては、これも間違いとはいいきれなかった。しかし、安定成長になるとともに、グローバル化により「責任を取ること」が求められる社会となった。そこに現出したのは、誰にとっても不幸せな社会である。

そこで思い出されるのは、やはり「密教徒と顕教徒」の問題である。日本には、古くからこの二種類の人たちがいる。「自立・自己責任・市場原理に基づく自由主義」と「甘え・無責任・悪平等に基づく共同体主義」、と言い換えてもいいだろう。この両者は、価値観も、意識も異なる別の人種である。だからこそ、各々の違いを知れば共存が可能である。しかし、一旦「人間である以上平等」という視点から、違いを無視して同等にとり扱おうとすると、どちらにとっても不幸な社会を生むのだ。

ここは一つ、日本本来の構造に戻るべきなのだ。江戸時代以前の近世においては、階級社会であった分、この両者はインタラクションこそあったものの、棲み分けており、足の引っ張り合いをせず、共存できていた。密教徒は密教徒同士、顕教徒は顕教徒同士で、同じ価値観を共有し合える。その一方で、近代に入ってから「平等」意識に基づく「大衆社会」的メンタリティーが導入され、この両者は常に顔を合わす必要性が生まれた。

しかし、明治期の政治的リーダーが構想したように、それぞれが棲み分けてそれぞれの役割を果たすような社会を作れば、密教徒はノブリスオブリジェを発揮し、責任あるリーダーシップを取るとともに、顕教徒はあくまでも無責任で甘えていても、なんら問題にされない環境を構築可能である。共同体の中の方が生きやすい人や、逃げ込める無責任の共同体にすがっていたい人は、無理に近代的な個を確立する必要はない。これを求めたところに、近代日本の不幸があり、昨今の社会問題が発生しているのだ。

二つの日本を作ってしまえば、問題は解決する。その場合、「密教徒と顕教徒」、その両者に属する人の間では、受けられる権利や負担すべき義務は当然変ってくる。しかし、それも含めて、画一化しないことが、互いの幸せに繋がるのだ。近代を脱したのだから、あえて近代のベースとなっている、民主主義や平等にコダわる必要はない。コダわっているからこそ、どうしようもない矛盾や軋轢が生じ、社会問題を引き起こしている。

一人一人の個性に差がある以上、平等は大事だが、それは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」でなくてはいけない。この場合、甘え・無責任なヒトも、一度だけ自己選択が求められる。そしてその結果についてのみ、最低限の責任を持つ必要がある。しかし、それは「選択の結果について後からどうのこうの言わない」と言うだけのことである。、顕教徒も、この一点さえ守れれば、それ以外は勝手にしても良い。その代わり、密教徒が何をしようと文句はいわせない。これさえルール化できれば、構造的な問題は解決する。心の問題を解決する早道は、教育改革でも社会改革でもなく、この一点にかかっている。


(05/04/08)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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