ゆとりの行方







先ごろ、教科書検定の結果の発表があった。その影響としては、「国際問題の高まり」の方が話題となっている感が強い。だが、それに負けず劣らず、「発展的内容」が「ゆとり教育」の見直しとして捉えられ、教育政策の転換として話題になっている。しかし、「ゆとり教育」か「学力向上」かという二項対立で、教育のあり方を捉えること自体がオカシい。二項対立になるのは、教育といえば一種類のあり方しかないという暗黙の了解を前提としているからだ。

そもそも、そういう「画一的教育」の発想自体が間違っている。教育界は、余りに悪平等主義に汚染されている。そもそも、一人の人間の中でも、ゆとりを求めたい面と、学力向上を求めたい面と、両面あるのが普通だ。特に勉強好きの人間でなくても、好奇心をくすぐられて、命令されなくても、もっと知りたい、もっと勉強したいと思う科目や授業が一つや二つあるのは、そう珍しいことではない。

しかし、その生徒が、どんな科目のどんな授業にも「もっと知りたい、もっと勉強したい」と思うかというと、そんなことはない。人間というのは、こういうムラっ気があるのが普通なのだ。もっというと、同じ教科であっても、たとえば国語で作文を書くのは大好きだが、書き取りが大嫌いということもよくある(ぼくだそうだった)。体育でも、サッカーは得意なのでスゴくやりたいが、野球は不得意なので余りやりたくない、ということもある(これまた、ぼくがそうだった)。

確かに、近代主義の全盛期といえる「追いつき追い越せ」「富国強兵」「生めよ増やせよ(これは違うか)」の世の中では、成長に必要とされる人材に対し、最低限の知識と社会性を担保する手段としての「近代教育」がもとめられたことも確かだ。しかし、その時代は終わった。教育の目的は、近代主義的価値観から自由になるとともに、社会で求められる知識に対し「一定の品質保証をするためのもの」から、百人百様のよい個性を伸ばすものへと変化しなくてはならない。

こういう時代においては、「ゆとり教育」か「学力向上」かという問題は、悪平等的に画一的な二項対立で考えるのではなく、一人の生徒の中でも、得意な分野は、さらに「発展的」に学習し、不得意な分野は、最低限の「基礎・基本」だけマスターすればよしとする、という、リソースの「選択と集中」と考えるべきである。しかし、教育界にいる人間がいちばん苦手とするモノが、この「個性を捉えて評価する」ということである。例の「人間は、自分より能力の高い人間は、客観的に評価できない」という「バカの壁」が、ここでも効いてきているのだ。

教育界にいる人間の多くは、より「甘え・無責任」で悪平等主義指向の強い人材が多い。少なくとも高度成長期末には、教職になろうという人間は、民間に就職するより、教職の方が「楽で安定的」だからという理由で選ぶ方が多くなっていた。だからこそ、70年代のはじめには「でもしか先生」というコトバが生まれていた。ということは、今の教育界にいる人材においては、そういう人たちが大半を占めているということである。だからこそ、教育界自体に「甘え・無責任」的体質が強く刻み込まれた。

その一方で、親たちも共犯者である。もちろん親たち自体が、日本の大衆の縮図である以上、彼ら彼女らにおいても「甘え・無責任」の方が多数であることは自明といえる。こういうヒトたちは、「自分たちのダメさは棚に上げて、子供に過剰な期待を負わせる」という意味で「無責任」か、「子供たちを管理することさえせず、ほったらかしておく」という意味で「無責任」か、どちらかである。前者なら、画一的な「学力向上」指向になるし、後者なら、画一的ほったらかしの「ゆとり教育」指向になる。

世の中に「甘え・無責任」の種が尽きない以上、これはこれで対応する必要がある。そういう意味では、少なくとも、画一的な「学力向上」をめざす学校と、画一的「ゆとり教育」を目指す学校の二種類を用意し、全く異なるカリキュラムを実施した上で、どちらを選ぶか自由に選択してもらえばいい。「甘え・無責任」な方にも、その「選択」という最低限の自己責任はとってもらうことになるが、これは例の、機会の平等を担保する上でどうしても必要になる責任として甘んじていただきたい。

その一方で、「自立・自己責任」に生きている人たちに対しては、「選択と集中」で「よい個性を伸ばす」学校を、これまた別に用意し、選択できるようにすればいい。誰でも、この3者のどのプロセスを選ぶかは、自己責任で選択できるようになっていれば、「機会の平等」は実現可能である。よく考えてみれば、この問題も結局は「甘え・無責任」なヒトが求める悪平等的画一化で、「自立・自己責任」な人たちの足を引っ張るなという点に尽きる。

今、社会問題のようにいわれているコトのほとんどは、「機会の平等」さえ担保された状態で、あらゆる選択を可能にしておけば、何も問題なく解決してしまう。「悪平等がイヤだ」というヒトに、悪平等を押しつけようとしているから問題になるだけだ。無理に画一化し悪平等を実現することで、結果の平等を実現しようとするからオカシいのだ。これもまた、「甘え・無責任」と「自立・自己責任」という、「二つの日本」を並列させた上で、あとは自由主義の原理にまかせておけばいいだけの話なのだ。



(05/04/22)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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