縁は異なもの






とある保険会社の広報調査によると、首都圏の20代30代の若者では、男女を問わず9割近くが結婚を望んでいるものの、そういう出会いに恵まれないヒトが7割近くを占めているのだそうだ。結婚できるチャンスのあるヒトは、全体の1/3。だからどうこうというワケではないが、雑駁ではあるものの、なかなか直感的な実感とも符合する数字である。いいかえれば、こういう数字が出てくること自体が、いたって健全ということもできる。

この数字を読み解くためには、そもそも男と女では、その「7割」という数字こそ似ているものの、その理由は根本的に異なることに注意する必要がある。まず、こういう数字になる原因は男の側にある。女性から「結婚してもいい」と思ってもらえるような甲斐性や器のある男性は、せいぜい全体の1割か2割だろう。どんなに多く見積もっても1/3というのがMAXである。あとの2/3は、最初から「粗大ゴミ」になることがアリアリとしている連中ということだ。

つまり女性のほうからすると、恋愛対象になる男性自体が、全体の3割以下ということである。これでは、残りの7割の男性にチャンスがあるワケがない。どの女性も狙うのは「3割くん」の方だからだ。恋愛関係が成り立つのは、「3割くん」対全女性ということになる。当然この「7割」男性の皆さんは、「結婚に結びつく出会いがない」ワケだ。いわば、身から出たサビである。原因は自分の「器」の問題なのだから、他人のせいにはできない。

このように自由恋愛というのは、ある種の市場原理である。そこで自由競争が行われるのなら、当然、「勝ち組」もあれば「負け組」もある。7割の男性は、いわば、「予選落ち」ということなる。一方、女性はちょっと様相が違う。実は、本当に熾烈な競争原理が働くのは、女性の間なのだ。一夫一婦制が制度としてあり、男女ペアが基本の組み合わせになっている以上、10割の女性が3割の男性を取り合わざるを得ない。競争率は3倍である。

つまり、1対1の男女カップルをゴールとしているがゆえに、女性も7割のヒトが、相手にあぶれてしまうことになる。だからといって、7割の「甲斐性無しくん」をパートナーに選ぶのも言語道断。となると、女性の側には何ら責任がないにもかかわらず、こちらも7割のヒトがチャンスに恵まれないということになる。つまり同じ7割といっても、男性は「自分のせい」、女性は「一夫一婦制のせい」とその理由は異なる。

この問題については、いままでもたびたび述べてきたが、実は人類始まって以来の根源的な構造であり、昨今始まった問題ではない。近代社会において「核家族」という、人類史上特異な家族形態が一般化してしまったがゆえに、問題が「深刻化」してしまっただけなのだ。人類の歴史の中では、全ての男性の中で、自分の「タネつけ」のチャンスを得られなかった男性のほうが圧倒的に多かったはずだし、それはやはり7割以上にのぼったのではないだろうか。

だから、男の7割が「甲斐性無しくん」というのは、人類の歴史とともにある普遍的な法則と考えた方がいい。それをうまくカバーするシステムを、かつては家族制度や社会制度の中にビルトインしてきていたものが、この200年程度の近代社会がぶち壊してしまっただけなのだ。たとえば、大家族の中での結婚のあり方を考えてみればいい。子供は「家族の一員」ではあっても、「特定のカップルの子供」という位置付けではない。母親はハッキリしているが、父親はあまりアイデンティファイされない。

たとえば、そういう仕組みであれば、少なくとも。一夫一婦制ではチャンスを失ってしまう7割の女性にも、出会いの機会が巡ってくることになる。特に日本の農村共同体では女系制が強く、夜這いの習慣とともに、この仕組みが強く機能していた。たかだか2世代前までこういうしくみだった日本社会では、「核家族」は弊害の方が多過ぎる。この一点をみただけでも、やはり日本の大衆には、「核家族」という制度をとらせるほうが間違いなのだ。はやく、共同体に戻してあげなさい。



(05/05/13)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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