凡才組織




日本で成果主義、能力主義がうまく機能しない理由は、常日頃から主張しているように、評価者の質の問題に起因する。本来その成果や能力を評価すべき立場にあるヒトは、被評価者より、より高いパフォーマンスを上げられる能力を持っていなくてはならない。人間は、自分以上の存在は、客観的に評価することができないからだ。ところが、日本社会では企業や官庁といった組織をはじめとして、悪平等的な「年功制」でポジションを決めている。

評価者の立場に立っているヒトは、決して能力が高いのではなく、単に経験年数の長さの差でしかない。もちろん、同じレベルの先天的才能を持った人間同士、あるいは一人の人間のライフサイクルの中、といった比較をするならば、経験や実績を積むことで、よりパフォーマンスの効率が良くなることは少なからずある。しかし、不特定多数の母集団で考えるなら、経験の長さと、パフォーマンスは関係ない。

そもそも、先天的な才能を持っているヒトは圧倒的少数なのだ。圧倒的多数の、その領域では能力を持たない「凡才」は、いくら経験を積んだところで、パフォーマンスや能力が高まることはない。0に何を掛けても、0。どんなに大きな数を掛けても、0は0。才能のないヒトが、その領域でいくら努力したとしても、なんら成果を生むコトはない。才能が0なのだから、何を掛けても0にしかならないということだ。

もちろん領域が違えば、持っている才能も違う。ある領域で才能がなくても、人間どこか取柄があるモノ。どんな「スーパー凡才」でも、一つぐらいは飛び抜けたモノを持っている。それが、人間のいいところでもある。「選択と集中」で、そこを大事にして、努力のリソースをそこに集中させればいい。そうすれば、どこかしら「ヒトにはできない能力」を持つことができる。もっとも、その能力が「世の中に役立つ」ものだったり、「金を生み出す」モノだったりする保証はないのだが。

しかし悪平等的なヒトは、自分自身を客観的に見れないがゆえに、自分の才能を棚に上げ、「世の中に役立つ」能力や、「金を生み出す」能力を持っているヒトにあこがれてしまう。そして、向こう見ずにも、自分にもチャンスがあると思い込んでしまう。もちろん、「機会の平等」という意味ではチャンスはいくらでもある。負け覚悟でチャレンジするのは自由だが、所詮は「ざこキャラ」である。負けて当り前の自業自得。そこであきらめるのが賢いやり方だ。

だが、そういう割り切りが出きるヒトは、最初から自分の力を知っている。こういうヒトは、そもそも無駄で無謀なチャレンジで、限られたエネルギーを浪費してしまうような選択肢は選ばない。ということは、「ざこキャラ」くんは、そもそも最初から自分を客観的に見れないヒトなのだ。となると、お決まりのように、「負けたのは仕組みや制度が悪く、世が世なら自分が勝ったハズだ」と主張することになる。

そして、こういう人たちばかりが集まった組織は、独特の評価体系を持つことになる。それは、結果ではなく、「プロセスの努力量」で評価しようというシステムである。なんのことはない、日本の組織の多くがこれなのだ。「これだけ努力しました」とプロセスで評価したがるヒトが多いのは、けっきょく、彼らが「結果を評価できない人たち」だからなのだ。プロセス中の努力量は、時間で計れる。プロセスは、バカでも定量化が容易だ。

この擬制を理論的に正当化したのが、「時間給制度」である。評価は働いた時間を基準にする。差のつかない、労働集約的な単純労働ならそういう制度も意味を持つだろう。しかし、極めて能力差の大きい知的生産を伴う作業となると、これはそもそも時間で測るべき問題ではない。ここにごまかしがある。もっとも、単純作業とはいうものの、腕力での穴掘りだって、実は上手・下手がある。筋力のある土木作業のプロと、ガキに毛が生えた程度の素人では、同じ穴を掘るにしても、かかる時間は一ケタ違うかもしれないのだが。

さて、そういうスキームをベースにしているからこそ、がんばったから、努力したから、評価する、になってしまう。つまり、能力がなく、不器用で、そもそもできないにもかかわらず、長時間悪戦苦闘して、結果、なにもできなかったというヒトがいちばん評価されるのだ。なんと、無能な凡才に優しく、社会主義的な「麗しき悪平等」評価なのだろう。凡才ばかりが集まった組織でも、右肩上がりの追い風に乗れば、それなりにやっていけた高度成長期なら、これでも良かったかもしれない。

いや、今でも「やっていける」のであれば、凡才ばかりが集まって、こういう制度をとるのは一向に自由だ。しかしそれは、いつも言っているように、合目的的な組織ではなく、「共同体」である。ことビジネス界においては、このようなスキームをベースにしたのでは、組織は社会的責任を全うできない。凡才は凡才同士集まって共同体を作り、才能ある人間は才能ある人間同士集まって目的に向って邁進する。こういう「切り分け」をアタりまえのように受け入れてはじめて、日本社会は再生できるのだ。というか、それが、近代の悪弊に染まる前の、本来の日本社会のあり方だったのだが。


(05/05/27)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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