ビジネスと文化






最近では、ビジネスといっても「単にモノを作る」ことだけではなく、無形の価値を生み出し、それを利益の源泉とする、「ソフトコンテンツ系」の事業もイメージされることが多い。こういう「クリエイティビティー」が勝負になるビジネスは、映画産業などがその典型であるが、そこで扱っている商品が人類にとっての「文化そのもの」であることが理解しやすい。こういうビジネスにおいては、敢えて「社会貢献」とか「文化事業」とかいわなくても、本業自体が文化を生み社会に貢献していることは、いわば暗黙の了解事項である。

こういう産業においては、利益の源泉は「天才」の才能にある。天才という存在自体が、文化を生み出す源泉であるとともに、人類にとっての宝である。だからこそ、ビジネスである以前に、文化であり、社会的事業でもあるのだ。最近では、こういう「文化性」は、メディアや芸能・エンタテイメント系のビジネスばかりではなく、IT系でもゲームソフト開発会社のビジネスなどにおいては、共通する要素と認識されるようになった。こういう会社では、しばしば創業者の天才的なクリエイティブ・センスが、利益の源泉となっている。

しかし、こういう事業は、こと「効率性」という視点からすると、あまりよくない。付加価値生産は、特定の「天才」の能力に依存している。このため、一つのプロジェクトをやりつつ、その生産性を落とさずに別のプロジェクトも並行的に進めるということが困難である。チームによる生産という面の強い映画でも、名監督の年間製作本数というのは、その人ごとに大体一定になっていることからも、この傾向が理解できよう。また、天才というのはそもそも絶対数が少ない。誰か代りを持ってくることがむずかしい。

だから、この手のビジネスでは、生産の上方弾力性がほとんどない。スループットをあげることは至難のワザである。だからこそ、社会的・文化的価値が生まれるともいえるのだが。ここが、マネーゲームとは違うところだ。もちろん、マネーゲームでも、勝ちつづけるには、独自の天才的センスは必要である。だが、ここで求められる「天才性」は、「ソフトコンテンツ系」に求められるアーティスティックなクリエイティビリティーとは異なる。それは、エンジニア系の技術者や開発者に求められる「天才性」に近いものだ。

もちろん理系とはいっても、技術者も理屈だけでこなせるものではない。いろいろな発明や、新技法の創出には、鋭い感覚的な素養がモノを言う。だから「天才」は「天才」なのだが、それはアーティスティックなセンスとは違うというだけである。例の「バカの壁」で、一般の凡才からみれば、この二種類の天才を峻別することは極めて難しい。だからこそ、全く質的に違うモノながら、「天才」の一言でくくられてしまうのだ。

さて、マネーゲームにエンジニア的な天才性が必要とされることは、この20年ほど、金融機関が工学的センスに優れた理系の人材を確保するようになったコトを見ても理解できる。ここで問題なのは、いかに「天才」といっても、こういう工学的な「天才」のセンスからは、直接には文化が生まれない点だ。技術そのものがいくら進歩しても、それだけでは即文化にならない。原子力が平和利用も核兵器としての利用も可能なように、技術というのは文化的にニュートラルだからこそ価値がある。

その技術を活かして文化を生み出すのか、はたまた文化の破壊者としてしまうのか。それは、技術を生み出した天才的技術者の問題ではなく、それを利用する側の人間にかかっている。このように、工学的な天才のセンスは、いくら研ぎ澄ましても即文化になることはない。マネーゲームで巨万の富を築いたとしても、それが即人類文化に貢献するわけではないのは、このためだ。この違いがわかるかどうか。

したがってこのような事業においては、社会や文化への貢献を行うには事業そのものを行うだけでは不充分であり、かつての大実業家のように、マネーゲームで儲けた金を文化の振興や充実のために惜しげもなく投入する必要がある。一方、一般の製造業のような業種ではどうか。こういう業種では、右肩上がりの画一的な大量生産・大量消費を行っている間は、商品やサービス自体が文化たり得ない。だから、本業とは別に「文化事業・社会貢献」という活動が必要だった。

だが、それは近代産業社会的なスキームである。もはや、時代は変った。高い付加価値を持つ商品やサービスを提供しなくては、高い収益は期待できない。それなしでは、価格破壊が待っているだけだ。高い付加価値を得ようとすれば、製造業であっても「モノ作り」ではなく、天才のアーティスティックなクリエイティビティーに支えられた「モノ創り」でなくてはいけなくなった。そこでは、事業そのものが高い文化性・社会性を持つことが前提になっている。

今でも、付加価値ではなく、スループットを身上とする。マネーゲーム的な事業、価格破壊的な事業は存在する。そうである以上、「ためにする文化事業や社会貢献」というものがなくなるワケではない。しかし、付加価値指向を求める多くの事業においては、事業そのものの持つ社会性・文化性が、事業の前提として必要になっている。この違いがわかってはじめて、高付加価値型の事業を立ち上げることができる。その反面、この違いがわからないヒトは、いつまで経っても産業社会的な高度成長の呪縛から逃れられないのだ。


(05/05/27)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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