大衆の「物語」






「大きい物語と小さい物語」という論調がある。細かい論旨をすっ飛ばして言うと、かつては「万人が、共通に入り込める世界」があった。それが社会的に共有されている「大きな物語」である。しかし今は、百人百様で、各人がそれぞれ自分の中に個別の世界を持っているだけで、そこには本人しか入り込めない。なにも社会的に共有されているモノがない状態が、「小さい物語」である、という主張だ。

これはこれで、ある種の意識の持ち方をマクロ的、かつ比喩的に捉えたモノとしては、その通りであろう。しかし、ここには「その物語」を誰が創るのか、という視点が欠けている。クリエイターと消費者を、いっしょごたにした議論になっているのだ。物語を作り出すことは、創造者だけに許されている能力である。創造者というのは今も昔も極少数である。そもそも圧倒的多数の「大衆」は創造者ではあり得なく、常に純粋消費者でしかない。

したがって、世の中には「物語」を消費することしかできない人間のほうが多い。「大きい物語」とは与えられた「大きい物語」を、「小さな物語」とは与えられた「小さな物語」を消費しているだけのことである。決して、大衆が自分で「大きな物語」や「小さな物語」を創り出しているワケではない。物語が大きいか小さいかだけではなく、物語を創造しているのか、消費しているのか。この視点を持たなくては、この問題は、構造の半分しか捉えていないことになる。

趣味性が強く、超多品種少量的な分野においては、ある種送り手の側の方便として、受け手側で「創り出している」ように見せかけるコトも多い。しかし、消費者の選択行為により、作り分けのコストと手間を省いているだけであり、結果が送り手の予定調和の範囲に収まっているという意味では、決して何かを生み出しているワケではない。そういう「裏事情」もあり、結局は選択しかしていないヒトが、自分で主体的に創り出したと思い込んでいる場面は、飛躍的に増大しているだけに、勘違いをしがちなところだ。

大衆はそもそも、「大きい物語」を夢見る能力も語る能力も持っていないかった。それは「小さい物語」も同じ。物語が大きかろうが、小さかろうが、単に与えられた物語を消費するだけだ。この際消費する側にとって大切なのは、単にそれが心地良いかどうかだけである。したがって、提供される物語の数が少なければ、結果として夢をそこに託すヒトが増え、「大きい物語」になる可能性が高まるというだけのことだ。

さらに、日本の大衆特有の、悪平等志向、「寄らば大樹」志向が、拍車を掛ける。物語の数には関わりなく、一番ヒトが集まっているところにいるのが無難、という発想をする。こうなると、いくらその「物語」にヒトが集まっているからといって、そこに集う大衆一人一人が「物語」に重ねている思い入れが、全員同じだという保証はどこにもない。他人を意識するからこそ、表面的な結果として同じになるだけで、そのモチベーション自体はみんな違うと考えた方がいい。

そういう視点を取り入れると、かつては「大きい物語」が共有されていた、ということ自体が幻想に過ぎないことがわかる。だからこそ、どちらかというとこの議論が、論者が「大きい物語」が存在していたと主張している高度成長期以前を体験していない人々によって支持されることが多いことに着目すべきである。「大きい物語」が共有されていたというストーリーは、実体験を持たない脳内シミュレーションの結果だったり、過去へのロマンに基づく願望なのだ。

たとえば、高度成長期にマイカーを買うモチベーションにしても、最初に購入した裕福なヒトは「夏、海の別荘に行くとき、混んだ海水浴列車に乗っていくのがイヤだから」とでも言うような、手段としてクルマが必要な理由付けがあったろう。しかし、その後に購入するフォロワーにとっては、隣も買ったから、差がつくのがイヤだから、とでもいうように、車を持つこと自体が目的化してしまっている。こうなると、物語の本質である「なぜ差がつくのがいやなのか」という理由付けは、一人一人全く異なって当然である。

同じ「コロナ」や「ブルーバード」を購入したヒトでも、このように一人一人理由はに違う。同様に、「裕次郎」や「ひばり」といった昭和の大スターにしても、そのキャラクターの中に人々が見据えていた「憧れ」も、決して一様ではない。逆に、一様でない「深み」を持っていたからこそ、大スターになったということもできる。結果が同じだからといって、その理由もまた同じという保証はない。それを行動の結果からひとくくりにしてしまうのは、マス・マーケティングと同じ過ちを繰り返してしまうことになる。

そういう意味では、敢えて同じ言葉を使うなら、大衆は今も昔も、「物語」を自ら語っているのではない。他人であるクリエイターによって創造され、自分にとって外在的に存在する「物語」に、自分の思いを仮託するだけだ。その結果、多くのヒトが仮託した物語は、あたかも巨大な支持を得ているように見えてしまう。しかし、それは「仮託」という行動とその対象が共通なだけで、「仮託」される中身自体まで同じであることを担保するものではない。

「一億総中流」の悪平等的横並び幻想が崩れたという意味で、一人一人が個別の物語にハマらざるを得ないというのなら、それは納得しうる。また世の中が、創造者がリードする時代から、消費者がリードする時代になり、クリエイターである「おたく」は滅び、純粋消費者である「オタク」になったように、物語は、創り手の側が規定するのではなく、商品として選ばれることによって、消費者が規定するようになったというのなら、それもまたその通りであろう。

しかし、かつて「大きい物語」があったというのは、あくまでも幻想でしかない。高度成長期でも、今でも、純粋消費者としての大衆の本質は何ら変わっていない。それは、大衆自身がどう自己規定しているかとは、関係ない問題である。トラック上の長距離競技で、一周遅れになってるのだが、自分がその事実に気付いていないと、トップ集団とデットヒートを演じているかのように勘違いしがちだ。昨今の大衆、特に団塊Jr.に代表されるF1・M1層は、「周回遅れ」を自己認識していない傾向が強い。日本の大衆を考えるときには、ここをはきちがえると、とんでもない落し穴にハマってしまうのだ。


(05/06/17)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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