武士道の原理






東国武士が、その勇猛な姿を日本史上にデビューさせたのは、保元の乱が契機となるだろう。その意識や行動、組織構造などが、天皇・貴族を中心とする、古代から続く秩序とあまりに違ったゆえに、当時の都の人々に、鮮烈な印象を与えたことだろう。それだけでなく、後知恵で振り返ってみれば、その後数百年をかけて「古代的秩序」を打ち壊し、近世につながる新たな秩序を列島全体に構築するきっかけとなったともいうことができる。

元来「東国」は、「やまと」とは異質な地域であった。もちろん、地面自体は連続しているのだが、古代においては「異なる秩序が支配している世界」として捉えられていた。大和朝廷にとっては、いわば植民地のようなものである。したがってこの時代の東国においては、畿内のような直接支配ではなく、間接支配により統治を行った。あたかも、大英帝国が世界の植民地の統治を行ったように。

具体的には、帰順してきた現地の豪族や、武力によりその土地を制圧した者を領主とし、領主に対し賦役や税を課するが、そこより下のレベルには一切コミットしないというものである。朝廷は、東国の内政は一切感知しない。領主が義務さえ果たしていれば、あとはやり放題である。これらの国造は、その支配地域に対し、独自の権力を持つだけでなく、独自の軍事力も抱えていたため、半ば独立国のような形であったと考えられる。

また、中央でその軍事力を必要とするときも、西国の軍勢のように直接編成し指揮をとるのではなく、軍団ごと徴発するスタイルが主流となった。いわば、近世でいう「軍閥」のような形であり、律令兵制の中に組み込まれて運用された西国の兵士とは全く異なる形態である。これによりその後律令制自体が緩み、朝廷の威光が薄れるとともに、中央からの独立性はさらに強まった。

さて、もともと毛野国では馬の飼育が盛んだったように、東国には馬牧に適した地が多く優れた馬を多く産した。これが、東国において盛んだった縄文文化から脈々と受け継がれた、狩猟の伝統と組み合わさり、勇健な騎馬武士を生み出した。このため、武力的には圧倒的に東国の優位性が強まった。古代的秩序が崩れはじめる9世紀になると、この西国の旧来の権力構造と、東国の独自の権力構造との矛盾、対立が目立ってくることになる。

この結果引き起こされたのが、俘囚の叛乱や、「イ就(これで一文字・「しゅう」と読む)」馬の党の跋扈である。これは、あくまでも「都」の価値観で評価しているから、こう否定的に表現されるのだが、その実態は、武力の強弱のみが優劣を決する社会構造にある。武力を背景に、「力によるヒエラルヒー」が構築される。より強いものが力を持ち、より弱いものがその軍門に下る。これにより、いわば「競争原理」に基づく秩序が形成された。

これが、東国の武士社会の基本である。この結果生まれたものが、主従関係に基づく、タテの論理を基本に構築された「イエ型社会」である。これは、天皇を頂点とする古代官僚制的ヒエラルヒーの中で、各々の職能別に、独自に朝廷に帰属し奉仕する西国の社会と大きく異なる。各職能の中では、当然ヒエラルヒーはあるもののの、職能間については天皇の名の元に基本的にフラットである。この結果、官職が変形した職能関係に基づく、ヨコの論理を基本に構築されたムラ型社会が形成された。

武家社会は、その根源的な形成において「競争原理」があり、その「市場」での「勝ち負け」が、主従関係という秩序の源泉となっている。必然的に、この勝負で勝つかどうかは、「自立・自己責任」性に負っているところが多い。「自立・自己責任」性が高くなくては、そもそも競争に勝ち残れないからだ。上に立つものは「自立・自己責任」でなくてはならず、その反面軍門に下るものは責任を上に預けられるという武士道のルールがここから生まれた。

このように武士道の原理は、競争の中から生まれてきたものだけに、より責任をキチンと取ったものが、よりヒエラルヒーの上に行くという機構がビルトインされていた。だからこそ、主従関係で「従う」ものが出てくる。ただ腕力だけでは、勝てない仕組みなのだ。したがって、当然上のものが「無責任」ならば、それを誅する権利は保証されている。それは戦国時代にはストレートに「下克上」ルールだったり、平時には江戸時代のように「押し込め」ルールだったりする。

日本のノブリス・オブリジェとして、武士道精神に寄り所を求めるのは、今の時代においては、適切なソリューションの一つである。実際、武士道にスポットライトを当てる論調は、昨今よく聞かれる。しかし、明治時代になってからの「武士道」観だけに頼ると、危険な落し穴がある。それが、この武士道成立過程での「競争原理」の発露である。常に競争原理にさらされるため、「自立・自己責任」を極めていかない限り、その地位は安泰ではない。このようなメカニズムが内在されてはじめて、武士道が機能していたことを、決して忘れてはいけない。




(05/07/01)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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