経営者の体質






さて、今年も株主総会シーズンが終わった。この時期になると、試験の一夜漬けよろしく、「総会対策」でそわそわしてくる「経営者」が日本には多い。しかし、経営者が株主を過剰に恐れ、過敏症を示すことのほうがおかしい。株主は決して経営者の敵ではないし、本質的に利害が対立するワケでもない。それより、ポジティブな評価と目的をもって、その会社の株を買い、保有しているのが株主である。そういう意味では、経営者やその会社のサポーターであるハズだ。

もちろん、サポーターやファンでも、贔屓のチームが期待に添う活躍ができなければ、ブーイングすることもあるだろう。とはいっても、それはキライなチームに対するブーイングとは質が違う。期待している、愛情を持っているからこその、現状に対するブーイングである。そういう意味でのブーイングなら、経営陣に対し浴びせられることもあるだろう。しかし、株主を恐れたり、目のカタキにしたりするのは、根本的に経営に対するスタンスに問題があるとしか思えない。

そもそも、経営者は次の3つを守っていれば、なんら株主に対し後ろめたい気持を持つこともないし、気弱になる必要性はない。それは、まず第一に「何も隠さないこと」。次に「キチンと約束すること」。最後に「結果に対して責任をとること」である。もっとも、これは経営に限らず、「人の道」そのものともいえる。これができない人間が、人の上に立っているとするのなら、それは年功制の大きな弊害といわざるを得ない。

ウソをつくのは、古今東西を問わず人倫にもとる行為である。公的な立場でウソをつけば、これはもう犯罪である。さすがに昨今の日本では、かつての「企業性悪説」の時代とは違い、コンプライアンスとディスクロージャーは、企業の常識としてかなり浸透してきた。企業の活動は、全て包み隠さず公開するのが原則である。そもそも、企業はヤクザのような「反社会組織」ではない。逆に「法人」と呼ばれるように、社会の中で擬似人格として認められなくてはいけない存在である。

こういう時代になると、何か隠していたり、隠しているようそぶりをするだけで、その企業は、何か悪いことをやっているのではないかと思われる。確かに「李下に冠を正さず」ではないが、悪いことをやっているから隠す、ということも多いだろう。だがよく考えれば、もし何か悪いことをやっているのなら、その場はゴマかせても、いつかはバレる。一旦バレてしまえば、責任を逃れることはできない。だから「何も隠さないこと」が大事になる。

このように、隠す以前に悪いことをやる方が間違っている。隠すかどうかではなく、悪いことをやっていること自体、そもそも言語道断である。直接の因果関係についての責任はなくても、隠したことについての責任は必ずついて廻る。それなら、先に手の内をさらけ出した方が、自分が潔白であることは示しやすいハズだ。少なくとも、「隠した」当事者として共犯者にされる危険は薄らぐ。この意味でも、「ディスクロージャーは身を救う」のである。

これと同様に、言うべきことは、全て言わなくてはいけない、という視点からすると、「キチンと約束すること」も、非常に意味がある。曖昧であれば、そこに疑問が湧く。ある種の曖昧性がついて回るものでも、目標を明確にし、約束してしまえば、口をさしはさめなくなる。どんな目標であっても、一旦約束してしまえば、ステークホルダーはその目標の是非については問えなくなる。問題は、その約束を果たせるかどうかだけになる。いわば、その問題についてのキャスティングヴォートが、手のうちに入るのだ。

もちろん、絶対に達成できない目標を、リップサービスでカラ約束するのは問題だ。しかし、目標を曖昧にしたがゆえに、中途半端な目標を外部から押しつけられたのではたまらない。自分としては厳しい目標でも、それが自分から掲げたものであれば、ある程度の読みと落としどころのイメージを伴っている分、余程フリーハンドが残っている。また、約束することでパフォーマンスが上がり、火事場のバカ力ではないが、通常以上の成果を残すこともよくある。

そういう意味では、「何も隠さないこと」と「キチンと約束すること」は、やるかやらないかだけの問題である。決して難しいことではない。となると問題は、「結果に対して責任をとる」ところにある。これは、やるかやらないかだけでは済まない、能力的な問題が含まれている。世の中には責任をとれるヒトと、責任がとれないヒトがいる。責任をとれないヒトでは、いくら努力しても、この「結果に対して責任をとる」ことはできない。

多くの経営者が意味なくステークホルダーを恐れるのも、そもそも責任感がないし、責任をとれるだけの度量もないからだ。逆に、「自立・自己責任」なリーダーシップをとれる経営者なら、何も株主など恐れない。それどころか、自分のヴィジョンや戦略を株主に説明し、もっと投資を引き出すいいチャンスだと思っているだろう。そういう意味では、株主総会を恐れるかどうかは、その会社自体にリーダーシップが存在するかを見極める、リトマス試験紙のようなものということができるだろう。実際に不祥事が起きなくても、その企業の体質は、これであらわになるのだ。



(05/07/08)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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