ボランティアの条件






最近では、日本でもボランティア的な活動が根付いてきた。自分自身、ノーギャラ・手弁当で、いろいろな集まりの幹事や委員をやることが多い。もっとも、もともと広告屋のような仕事は、ヒトの世話をするのが好きでなくては勤まらないし、こういう仕事をやっていると、誰からともなく「仕切役をやってくれ」という話になりがちである。それなら、いっそ自分から率先してやってしまえ、という文脈で引き受けてしまうものが多いのだが。

しかしボランティアというと、余裕のあるヒトが困っているヒトを助けてあげる、「慈善事業」的な色合いで捉えられることが、日本ではまだまだ多い。しかし、この慈善というのが困りモノなのだ。慈善活動を行う裏には、「相手を自分より低く位置付ける」モチベーションが含まれている。もちろん、そういう意識が極めて薄いものから、ほとんど差別意識や優越意識の裏返しまで、その程度はさまざまである。だが、これでは慈善ではなく偽善である。

ボランティアとは、障害者の車椅子を押してあげることではない。ある場合には、「車椅子押し」がボランティア的に行われることもあるだろうが、介護ビジネスのように、全くの営利行為としても成り立ちうる。行為そのものと、ボランティア性とは関係ない。ボランティア性は、外側から行為を見て判断するものではなく、あくまでも実施者の内部の問題でしかない。

同様に、相手が弱者である必要性もない。たとえば、自分の家の前の道を掃除してキレイにするとする。このとき、もし向い側に大物政治家が住んでいたとして、その門前まで掃除したとすれば、これは立派なボランティアである。公共の道をキレイにするという行為は、「公」的な活動であり、充分ボランティア的である。それによってメリットを得るヒトが、誰であろうと「公」性には変りがない。

このように、ボランティアとは「弱者に施す」ものではない。対等な人間間の、自主的関係の中でも成り立ってこそボランティアなのだ。まさにボランティアとは、「公」としての立場を全うする快感を得るために、自分の責任において行う行為である。そこには、相手は必要ない。問題は自分の中だけで完結している。自分のためにやるからこそ、ボランティアたりうるのであり、決して相手のためにするものではない。

では、なぜボランティアに関する誤解が生じるのか。それは、日本には官と民こそあれ、「公」という存在がないからだ。ボランティアとは、自分から積極的に「公」としての役割を果たすことである。「公」としての役割を果たすことが、自分の満足のになるからこそやるものなのだ。その意味では、結果として他人と何らかのインタラクションが発生するにせよ、モチベーションレベルでは自己完結している必要がある。だからこそ、「自己責任」がとれる人間でなくては、ボランティアたりえない。

昨今、選挙の投票率の低さが問題視されるが、これも同じ根を持っている。権利や義務という文脈でしか選挙を捉えられないヒトが多いからこそ、他の権利や義務とのトレードオフの中で選挙に行くか行かないかを決めることになる。しかし、選挙とはそういう「私」の領域の問題ではなく、「公」としての立場で考えるべき問題である。選挙に行くこともまた、ボランティアなのだ。

この構図がわからない人間に、いくらボランティアを力説してもはじまらない。日本でも、海外の陪審員制度のような、「裁判員制度」が実施されることになった。この制度が定着し、実をあげるには、こういう役割を「義務」と捉えず、率先して「公」としての立場を実践することとして捉えられるかどうかがカギになる。いっそ、選挙にしろ、裁判員にしろ、「公」の立場を果し得る人間だけに権利を与えた方がいいのではないだろうか。


(05/07/22)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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