大衆と情報消費






大衆情報化社会が実現した現在では、情報メディアやコミュニケーションの問題を考える際には、あるユーザーが、情報の発信者としてそのコンテンツやサービスと関わるのか、情報の消費者として関わるのか、という視点がきわめて重要なポイントになる。ともすると、このような文脈においては、「発信者でも消費者でもありうる」という、曖昧なユーザー像を前提に議論を進めることが多い。少なくとも、80年代以来の日本のメディア論、ネットワーク社会論においてはそうだった。

たしかに、限られた層だけがそのコンテンツやサービスに接する創成期においては、極めて高度なリタラシーが要求されるため、このようなユーザー像を前提としても、「あたらずとも遠からじ」という感じには収まっている。しかし、一気に普及・実用化が進んだ状況においては、ユーザーのあり方を創成期と同じように捉えることはできない。その視点の切り替えこそが、「大衆情報化社会」あるいは「高度情報消費社会」とでもいうべき現在の状況を解くカギになる。

そもそも、情報の発信者と消費者とは、単に情報との関係性というだけでなく、人間のあり方として根本的にちがう。この両者は、非可逆的な関係である。もちろん、映画の監督がカーマニアで、自動車雑誌をむさぼるように読んでいる、とかいうように、一人の人間がジャンルにより発信者になったり、消費者になったりすることもある。ここで問題にしているのは、数として圧倒的に多数の「純粋消費者」の存在である。

まさに、ある領域の「大衆化」とは、その領域において「純粋消費者」が市場のマジョリティーを占めるようになり、彼ら・彼女らをターゲットとした「マスベースの生産」が成り立つようになることである。情報メディア、情報ビジネスの「大衆化」、「実用化」においても、この構図は全く変らない。情報社会の大衆化とは、情報の発信者が増えることではなく、情報の純粋消費者が大量発生し、その層をベースにした「マスビジネス」が成り立つことに他ならない。

このように「大衆化」とは、消費者が増えることである。あくまでもクリエーターは少数のままであるが、その消費者が多数生まれるのだ。特に情報サービスやコンテンツは、無形の情報データをもとにしているため、リアルな形のあるモノ作り以上に、消費者がマス化することによるビジネス上のメリットは大きい。パソコン用のソフトや映画のパッケージソフトなど、この十数年で、価格の桁が一つ下がってしまったのは、まさしくこの「需要の大衆化」の賜物である。

前にも論じたが、80年代の「おたく」から00年代の「オタク」への変化は、この典型例だろう。「おたく」の時代には、「おたく」とはクリエーターに他ならなかった。コミケとはなにより、自作のコミックスの発表の場だったのだ。その分、濃いマーケットだったが、市場規模はmaxでも100〜300億程度といわれていた。それも直接の同人誌やソフトの売上以上に、印刷や交通といった周辺市場への波及効果の方が大きかったと考えられる。

しかし、今世紀に入ると沸き起こった「オタク」の時代に入ると、「おたく」文化の「純粋消費者」が大量に生まれた。「おたく」とは違い、「オタク」市場として数千億の巨大マーケットが形成される。当然、「オタク」関連グッズには、メジャーな企業が参入するし、その販路もコンビニやスーパーといった一般向けのチャネルが利用されるようになる。その一方で、コミケも「同人誌を売る」場となり、一般の商業誌と肩を並べる売上を記録するものも現れる。

この構造は、情報メディアのコンテンツやサービスでも全く同じである。そのテイクオフ期から成長期変化を振りかえれば、個人Webもそうであったし、BBSもそうであった。最初は、発信者=消費者であったものが、この両者が分かれ、圧倒的多数の消費者を集めるようになってはじめて「普及」する。昨今では、Blogもそうなりつつある。SNSもその構造上、多数を集めるところまできていないが、「普及・定着」するためには、このジレンマを受け入れる必要があるだろう。

オークションでも、昨今は売買参加者以上に、ウォッチャーが多い。まさに、売り買いの当事者がやりあっている状況を、あたかもスポーツの観戦のごとく楽しむワケである。2チャンネルなどの大型匿名BBSも、ある時点から、参加するよりウォッチするほうが楽しいモノとなったし、そうなったからこそ、社会的に普及し、大衆の中での位置付けが定着したともいえる。

どんな情報サービスにも、高度なリタラシーと発信すべき情報を持った、一部の「情報エリート」が主導している段階がたしかにある。インターネットでいえば、アメリカでのARPAネット、日本でのJUNETといった時代だ。多くの有識者、学識者たちは、こういう「知的水準の高いメンバーにより繰り広げられるネットワーク」に対するノスタルジーと思い入れが強すぎる。それは、メディア関連ジャーナリズムも同じである。

大衆化した段階で、全く違うものになっている。というより、全く違う接し方、楽しみ方が「発見」されたからこそ、「大衆化」したというべきだろうか。基本的に、大衆は能動的にはならない。受動的に楽しむからこそ、マスになるし、ビジネスになる。こと、コンテンツやエンターテイメントという領域では、これは王道である。そして、この2〜30年の経験からいえば、こと情報に関することは全て、この法則がなりたつ。この「大衆情報化社会」「高度情報消費社会」の掟を理解したものだけが、この世界での成功者となれるのだ。


(05/07/29)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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