「官」の魂、百まで







小泉首相が一段とその変人ぶりを発揮し、突入した夏の政局。このままでは、本当に公約通り「自民党をぶっ潰す」ことになってしまう公算が強い。守旧派や利権にどっぷり漬かった族議員はさておき、一般の良識あるヒトにとって「構造改革は必須」というのは常識と思うが、昨今の小泉首相のやり方には、顔をしかめるヒトが多いのではないか。彼にとっては、改革そのものより、対立派閥をいかに潰すか、ということのほうが重要なことが、あまりにあからさまだ。

さて、その「反対派潰し」の最たるものが、にわか仕立ての「主流派候補者擁立」である。こんなガキのケンカみたいな露骨なやり方は、民度の低い国はさておき、政党政治が確立している国では、今だかつて見たことがない。それだけに面白がって、ほとんどプロレスの遺恨試合のノリで、週刊誌やワイドショーの格好のネタになっているくらいだ。まあ、そういう手の内なので、候補者選びがあからさまに泥縄でも、別に問題にはならないのだろう。誰構わず擁立、という感じになっている。

そんな中で目立っているのが、霞ヶ関の官僚の出馬である。ニュース解説者によれば、世襲が増えて「議席枠」が減っていたところに、あらたな公認枠がドッと湧いてきたので、政治に色気のある官僚が、一斉に飛びついたというのだが、これはそれだけではあるまい。官僚というのは、そんなに単純明快な行動をする人種ではない。表面を取り繕った「タテマエ」の裏には、ドロドロと腹黒い「陰謀」を必ずめぐらす輩なのだ。確かに、表向きは解説の通りかもしれないが、その裏にあるホンネこそが重要になる。

昨今は、20代で官僚をヤメ、民間で出直す人材も多い。まっとうな判断力を持っている人間が、「誤って官僚になった」のなら、そうするのが正しい道である。それでも、「元官僚」ということで、「学生時代に世間の本質が見ぬけなかった人間」、「一度は悪の道に進もうとした人間」という汚点は一生ぬぐえない。しかし、少なくともある時点で反省し、禊をうけたことも確かである。罪を憎んでヒトを憎まず。そういう過去があっても許す、周囲の心の広さが問われる問題である。

しかし、ここで官僚をヤメて政治の道を目指そうという人たちはそうではない。「官の生き方」にどっぷり浸り、反省も謝罪もないまま立候補しようというのだ。そういう人たちの考えかたは、官の時代そのままを引きずっているであろうことは容易に想像できる。ここで注目すべきことは、「官のメンタリティーとは何か」という点である。口では何とでも言えるので、それは、国を良くすることでも、世の中のためになることでもない。官の本質は、自分の属するグループの利権を拡大するとともに、利害の対立するグループの利権をそぐことである。

ここでいうグループは、時と場合により色々なものがある。一つの省庁の中では、課や局といった組織であったり、おきまりの「派閥」だったりする。さらには、複数の省庁間での利権の確保という対立もある。さらには、民と官の間や国家の間という構図もある。こういういろいろなグループが、時と場合により重層関係をなしている。この構造が、官僚のモチベーションであり、エネルギーの源である。たとえば、他官庁との対立では、ひとまず団結して自省に利益を誘導するが、一旦自家篭中のものとしたら、セクション間で争うのだ。

かつて橋本行革で省庁再編が行われたとき、官僚へのヒアリングを行ったことがある。彼らの状況認識は正しいし、タテマエとしての行革への支持も唱えている。しかし、彼らのホンネは違うところにあった。省庁間のガラポンが行われれば、既存の利権構造も、当然一旦崩壊することになる。そうなれば、通常の省庁間のせめぎ合いでは手に入らないような大きな利権も、自らのものにできる可能性がある。この可能性がオイシイからこそ、行革を支持していたのだ。

この構造がわかっていれば、今回立候補する官僚のホンネはすぐわかる。できれば、改革を骨抜きにし、現状の「官僚天国」を守ること。それが不可能なら、改革のタテマエを利用し、出身官庁に有利な新しい利権構造を構築すること。これである。「官」の歪んだ魂は、死んでも直らない。官僚というのはそういう人種なのだ。こころある人々は、ここに気付くべきである。そもそも「改革」とは、こと日本においては、「官」の影響を排除することと同義語なのだから。




(05/08/19)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる