コミュニケーション・ディバイド






日本における「大衆情報化社会」を考える上で重要なポイントの一つに、「日本の大衆は、そもそもコミュニケーション能力が低い」という問題がある。知的エリートの皆様は、世界的に活躍できるような、グローバルスタンダードのコミュニケーション能力を持っていらっしゃるのでしょう。アカデミックな議論では、こういう視点はいつも欠け落ちてしまっている。だから、「インフラが整えば、皆が皆、積極的に情報を発信する社会が到来する」という議論になってしまう。

しかし、メディアビジネス、コンテンツビジネスに携わっていると、世の中、そう簡単には問屋が卸さないこともすぐにわかる。たとえば、生活行動調査関係のデータをみれば、どれでも読み取れる事実だが、日本人の中には一年に一冊以下しか本を読まない人、とか、年賀状以外「字を書かない」人、とか、どれもおよそ全人口の1/3ぐらい存在する。そもそも活字すら読まず、文字すら書かない人が、発信できる情報を持っているとは思えない。

もっとも、「夕日に向ってバカヤローと叫ぶ」ことも「発信」には違いないので、情報がなくても機能としての発信はできるかもしれない。しかしそれでは、よしんば発信したとしても、誰も受信しない迷子のパケットにしかならないだろう。それよりも、あたかもADSLの回線のように、そもそも圧倒的多数の大衆にとっては、受信情報の量>>発信情報の量なのだ。これを前提にして、ビジネスモデルを組まなくては、とてもビジネスとして成功できないのが現実だ。

そういう意味では、日本の大衆は「他人とコミュニケーションする目的」を持ち合わせていない。情報を発信して、それによって何かしようという「目的」がない以上、情報の発信を行う意味がない。結果、コミュニケーション能力は著しく低下する。確かにこの現象は、社会の情報化が進んでから顕著になったものである。しかし、それは情報化によって引き起こされたものではない。ずっと昔から、日本の大衆のコミュニケーション能力は低いのだ。

アナログな状況下でも、日本の大衆がいかにコミュニケーション能力が低かったかという事例は、歴史を振り返ってみれば、いくらでも見つけられる。海外では、日本人の集団というと、ただ群れてニタニタしているだけで、何を考えているかわからない人たち、というイメージが強い。別に、これは海外だから、日本語が通じないから、ではない。そもそもコミュニケーションする目的を持たないし、コミュニケーションする動機もないからこうなったのだ。

その証拠に、こういう人たちは、日本にいても極めてコミュニケーションが不得意である。たとえば、立食パーティーに参加しても、仲間内だけで集まり、他愛もないスケベな話に興じているのがオチである。廻りが皆日本人で、日本語が通じる状況でも同じなのだ。これを見ても、語学の問題ではなく、それ以前の意識や能力の問題である。0に何を掛けても0なのと同じように、そもそも他人と話すべき話題を持たない人たちでは、会話が成立するワケがない。

また、日本の庶民、それも男性には、無口な人が多かったというのも知られている事実だ。江戸時代でも、武士など上流階級の男性なら、漢籍など教養もあったので、それなりに語らせれば何かを語ることはできたと考えられるが、「読み・書き・算盤」の実学こそ身につけていても、教養を持たない職人などは、語るべき「コンテンツ」を持っていなかったからだ。もちろん、現代の大衆と同様、仲間内の下世話な話なら、多いに盛りあがったと思うが、見ず知らずの相手とそういう話題をしようという発想もなかった。

また、「老夫婦の会話」も良く引き合いに出される。特に男性は「あれ」とか「おい」とかしか言わない。当人は「以心伝心」とかいって、これでコミュニケーションが成立しているつもりでいるようだが、決してそんなことはない。ディスコミュニケーションの中で、それぞれ勝手に想像しているだけである。かつてはジャストフィットではなくても、それがある範囲に収まっていたからウマく行っていただけで、昨今ではこの結末が定年離婚であることからも、その本質が知れよう。

コミュニケーションで大事なのは、その目的である。本来、コミュニケーションとは手段である。ワープロソフトの操作法を学んでも、それを使って書きたい文章がないのでは、全く意味がない。一旦覚えた操作も、すぐ忘れてしまうだろう。同様に、外国語を学んでも、それでコミュニケーションしたいメッセージがないのでは、宝の持ち腐れである。逆に、書きたい文章があれば、ワープロソフトの操作法など、すぐマスターできる。同じように、メッセージを伝えたいという熱意があれば、語学力はなくても、相手と心を通わすことはできる。

これこそ、コミュニケーションの本質である。情報化が進んで、この「矛盾」がくっきりとしてきた。目的を持つ人間と、目的を持ち得ない人間。コミュニケーションにおけるディバイドとは、この両者の間には、決定的に人間としての価値の差があることが明確になることなのだ。電話一本で、何億円という価値を生み出す人もいる。その一方で、意味のないコミュニケーション自体が、自分の居場所を確認するための目的となってしまう人もいる。もはやこの両者を、同じ価値を持つ人間、とか、平等な権利を持つ人間とか呼ぶことができないことは明白だろう。



(05/08/26)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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