暴力はタブーなのか





今年の夏は、甲子園大会が終わるや否や、優勝校における暴力事件が露見する、という騒ぎがあった。けっきょく、優勝の事実そのものには触れずに、事件を起した当人の責任だけを問うという、タテマエ重視の高校野球においては珍しい、「大人の解決」で幕を閉じる結果となった。そもそも高校野球なんてモノは、もっともワルい年頃のティーンエージャーが主役のワリに、清い存在を演じなくてはいけないという、偽善的なモノだ。こっちはトトカルチョでもやらない限り興味はない。

その顛末自体は別にどうでもいいのだが、この事件の中には、見過ごせない問題が秘められている。それは、こと高校スポーツに関しては、「何で暴力事件を起した学校に対して、理由を問わず厳しい処分がなされるのか」という点である。体育会活動においては、「暴力事件」がまるでタブーのごとく扱われる。そして、これに関した問題が起きるだけで、部の存在が否定されてしまう。まさに「一発レッドカード扱い」である。

こういう構造があるから、「暴力事件」があったという事実を掘り起こせば、そのバックにある状況は一切勘案されることなく、出場停止になる。そしてそれゆえ、あたかも「差別用語のコトバ狩り」のごとく、ヒステリックなまでにチクり合戦が繰り広げられることになる。そうなると、些細な事件だろうと、あげつらった方が勝ちである。試合に負けても、いわば口先で相手を負かすことができるし、相手を出場停止にさえできるのだから。

これがもし、「野球部が集団でシャブを打っていた」というのなら、それなりに処分を受けても当然だろう。しかし体育会関連で問題になる「暴力事件」の多くは、「第三者に対して、集団でカツアゲをしていた」とかいうのではない。それは、運動部活動の中で起った体罰に関する事件である。果たして、これは、「集団シャブ打ち」と同じレベルの問題なのだろうか。暴力というだけで、体罰と恐喝を同一視していいのだろうか。

暴力は、いかなる場合でも肯定し得るものでは、もちろんない。しかし、だからといって、いかなる場合も否定すべきものでもない。最近の日本では、この点がはきちがえられている。この違いはどこにあるか。暴力を使うこと自体が目的となった、「暴力のための暴力」は、どんな理由をつけても肯定しがたい。しかし、だからといって、ある目的を達成する手段として暴力を使うことを否定することにならない。

したがって、ある目的達成のための手段として、コストや時間といった面で合理性があるのなら、暴力を使うことも決して否定されるワケではない。たとえば、体罰における「暴力」は、目的ではなく、あくまでも「わからせるため」「目覚めさせるため」の手段である。であるならば、そこで求められる目的に対して、手段としての暴力の利用に合理性があるかどうか、という視点から見なくてはいけないハズである。

体育会活動の中で起る暴力事件の多くが体罰関連であるなら、それは「手段としての暴力の利用」ということになり、そういう視点からの判断が必要になる。こうやって見ると、この問題においても、日本人特有の「手段と目的の混同」が起っていることがわかる。「暴力を使うことが目的」というのでは、単に腹を立てているだけと同じで、正当化は難しい。しかし、ある目的を実現するための手段としてなら、「そこで暴力を使うことが正当かどうか」という議論は成り立つ。

そういう意味では、ある組織において、構成員の間で究極の目的が共有されており、その実現のための有効な手段となるのなら、暴力の使用は肯定し得ることになる。軍隊やスポーツチームというのは、極めて目的合理的な組織だ。戦争や試合に勝つためだけに存在している。勝たなければ、その組織の存在自体が否定されてしまう。したがって、結果的に敵にプラスとなる行為を行うことは、厳しく禁じなくてはならない。

利敵行為は、その組織の存立自体を左右する。したがって、それを止めるためには、ほとんど全ての手段は肯定し得る。戦時の軍隊においては、味方の足を引っ張り、敵にチャンスを与える行動をとる人間は、敵として射殺するコトも許される。そこまで許されるのだから、目的にあっているのなら、当然、暴力を利用することも肯定される。もちろん、教育の手段としての体罰も肯定できる。これを否定するようでは、そもそもその組織の成員たる資格がない。

もし、それでも暴力反対という人がいるなら、こうすればいいだろう。先にその組織においては、教育・訓練のための体罰を取り入れていることを明示するのだ。その組織においては、掟にそむいたものに対しては、相応の暴力的制裁があることを納得した上で、自発的に参加する。こうすれば、契約内に条件が明示されてるコトになり、自分の行為が相手からの暴力行為という結果を生んだとしても、それは「織り込み済み」であるはずだ。これなら、文句のあろうハズがない。

一律に体罰を悪とみなし、全面否定する風潮の蔓延と、「甘え・無責任」な大衆が増長している、昨今の日本社会のあり方とは深い関係がある。もし、「甘え・無責任」な輩に、それなりにマトモな行動をさせようと思えば、それは「痛い目に会わせる」しかない。犬の調教と同じである。自分が対等ではないことを、カラダで教えるしかない。教育とは、自分で痛い目に会って学ぶコトである。そのチャンスを増やすという意味では、体罰もまた良い手段ではないか。それがわからない人間は、向上心のない、学ばない人間だ。



(05/09/02)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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