平等なディジタル





インターネットやIT技術というものは、基本的に誰に対してもフラットな環境を提供する。機械には、意見も主張もない。人間のように、好き嫌いの主観で判断するコトはあり得ない。そもそも、そういう感覚的な領域こそ、人間の最後の砦であるのだが。そして、手順さえ正しければ、誰が操作しても、全く同じ動作をする。これが機械の基本である。そうでないのは、故障していたり、あるいは、そもそもの設計がおかしい。

さて世の中には、IT技術に関して「ディジタル・ディバイド」を主張する人がいるが、これは真っ赤なウソだ。そもそも世の中には、ディジタル機器を与えても、それを使う目的を持っていないヒトが多い。こういうヒトに、「操作法」を習得させようとしても無理なだけのコト。何度も主張しているように、ディバイドは「目的性」に対してあるモノであり、習熟度に対してあるものではない。

「習熟度」ということに関してなら、実はディジタルの方が、アナログに比べれば余程イージーだ。筆と墨で、相手に対して失礼でなく、自分としても恥ずかしくないレベルの書状をしたためるには、相当達筆でなくてはならない。今の日本に、自信をもって筆を扱えるヒトが何人いるというのだ。皆さんの中でも、結婚式の受付などで、「筆と硯」を見ただけで、署名を尻込みしてしまうヒトの方が多いだろう。

人前に自信をもって自書の墨字を出せるようなレベルまで、書道をマスターするために必要な時間とコストを考えれば、e-mailを発信するまでに習得すべきことなど、朝メシ前の話である。昨今では、まだキレイに字が書けないような幼児でも、e-mailを書くことができる。そして、相手に到着したmailは、それでも可読性は変らない。もっとも、内容が理解しやすいかどうかというのは別問題だが。そもそもディジタルとアナログというのは、そういう違いがある。

さて、IT技術の持っているフラットさは、当然、ITがらみの環境において「機会の平等」を実現する。ITに関しては、老若男女や階級、所得といった差別は一切ない。コンピュータもネットワークも、正しいコマンドを同じようにインプットすれば、誰であっても分け隔てなく、同じように動作する。ITというのは、ジェンダーフリーだし、バリアフリーだし、極めて平等にできている。

しかし、「機会の平等」は「結果の平等」とは相容れないのも世の常だ。機会の平等が高度に実現している社会ほど、結果はストレートに実力差が出る。参加条件が厳しく、二人しか参加できない競争なら、どんなに実力が違っても、結果は「優勝」と「準優勝」しかない。その一方で、誰でも参加できる競争で、10人、100人と参加人数が増えれベ増えるほど、結果としてシビアにランキングが出てくる。そして、母数が大きければ大きいほど、その順位は実力を反映する可能性が高い。

ITがらみの環境においては、機会の平等が貫徹している。それゆえ、そこから導き出される結果は、市場原理に基づく競争が基本となる。そうなれば、おのずと結果には、実力を反映した「勝ち負け」がついてしまう。IT技術のもつフラットさを賞賛し、活かすのならば、当然、この結果としての「実力差」を受け入れなくてはいけないのだ。この両者は表裏一体のものであり、切り離すことはできないからだ。

世の中でいわれている、インターネットやIT、情報社会への批判の多くは、この「結果としての実力差」を受け入れるのがイヤなコトに基づいている。IT化した社会の持つ効率性については、もはや誰も反論できない。だから、産業革命時の「打ち壊し運動」よろしく、社会の情報化自体を批判するわけにはいかない。その代わりに、針小棒大に問題をあげつらい、世の中の流れに棹を刺そうとしているのだ。

そう考えれば、この手の批判は「批判のための批判」であり、全くお門違いのものであることがわかる。自分の力で世を渡る実力のない者ほど、既得権や規制にすがりたがる。その手の総本山たる高級官僚が、その最たるものだろう。学歴や偏差値は高いかもしれないが。それでは世の中は渡れない。大事なのは、他人に頼らず世の中を渡れる「基礎力」だ。そう考えると、最近「知識よりも地アタマ」といわれる意味もよくわかるだろう。


(05/10/21)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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