ヒトを見る目





日本の企業においては、高度成長期を通して、長らく「オペレーションはあってもマネジメントはない」状態にあった。そもそも、右肩上がりの風に乗っかっていれば、企業の舵取りとしての経営はいらない時代だったのだ。経営は業界としての「横並び」で充分なため、戦略的判断は必要なかった。企業内で求められる判断は、業務に関する戦術レベルのモノに限られていた。求められないコンピタンスが、組織内で発達するワケがない。

当時の日本企業では、社長(COO)はいても、会長(CEO)は不在かドイツの大統領のような形式的存在というところが多かったことが、この事実を如実に示している。この時代、経営と称してトップが判断していたのは、実はオペレーションに関する戦術でしかなかった。少なくとも、かつての日本的経営はそれで済んでいた。もちろん、今となってはそれでは通用しないからこそ問題なのだが。

経営が不在であるからこそ、管理職に求められたのは、マネジメント能力ではなくプロジェクトリーダーとしての資質である。本来マネジメントには、業務に関する知識やノウハウはそれほど必要ない。それより、「マネジメントに求められる資質」の方がモノをいう。しかし、プロジェクトリーダーは業務に精通していなくては勤まらない。そういう意味では、この時代の日本企業では、トップまでプロジェクトリーダーだったのだ。

この時代においては、内部で業務に卓越していた人間が役員となり、トップとなることが多かったことがそれを示している。本来、業務に精通していることは、経営者たるための条件ではない。今のコトバでいえば、それは「執行役員」たるための条件であるかもしれないが、「取締役」であるための条件ではない。昨今、企業のガバナンスを高めるために、「社外取締役」が求められていることが、それを示している。

軍隊でいえば、士官と兵卒の長の違いである。たとえば砲兵の長は、大砲に卓越していなくては勤まらない。しかし、だからといって彼が軍全体の作戦に関する戦略を立てられるかというと、これはNOである。逆に、全体の指揮官は、各兵装の威力や作戦上のSWOTについては卓越していることが必要だが、自分が誰よりも鉄砲をウマく撃てたり、戦闘機の撃墜王だったりする必要はない。戦略と戦術はレベルが違うからこそ、それに責任を持つポジションも違うのだ。

そういう意味では、かつての日本企業では、現場で優秀なパフォーマンスをあげてトップになった人材を「軍曹上がり」と称していたが、なんともこの比喩は意味深である。さて、ここで問題になるのが、オペレーションに関しては、かなり「教育・訓練」によるレベルアップが期待できるが、マネジメントに関しては、必ずしもそうでない点だ。教育が全く意味がないというワケではないが、それ以前に、その個人が持っている能力のほうが重要なファクターとなる。

同様に、オペレーションについてのOJTはあるし、可能だが、マネジメントについては誰も教えてくれないし、教えることができないのだ。ある意味、潜在的な能力を持っている人間が、自分で自分の能力を高めて行かざるを得ない。このカギとなっているのが、「人を見る目」である。少なくとも、経営者が扱う対象は「人間の組織」である。人間の組織をハンドリングする最も基本的な能力こそ、人を見る目だからだ。

「人を見る目」さえあれば、ひとまず現状の組織を前提にした上で、そのパフォーマンスを最適化する「最適配置」が可能である。これがマネジメントとしての基本だ。多くの日本の企業においては、管理職がプロジェクトリーダーでしかない。この場合、プロジェクトチームとしての成果を高めるためには、「自分がプレイングマネージャーとして多くの成果を上げる」という「抜け穴」が可能になる。

ましてや、プレーヤーとしてのパフォーマンスが高い人間が管理職になっていることが多い以上、この「抜け穴」が正道化してしまっていた。この「抜け穴」を封じ、「自分が手を下さずに、最高のパフォーマンスを上げる」ためには、「人を見る目」が不可欠なのだ。日本の組織を活性化させるカギは、人を見る目を持った人材をしかるべきポジションにつけることにある。そのためのヒントとして、「人を見る目があれば、人脈は要らない」ことを付け加えておこう。


(05/10/28)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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