良い買い物






前回も触れたように、長らく日本の企業の特色は、COO以下、オペレーション、エクゼキューションの人間しかいないところにあった。戦略的経営を行う人間がいる企業は、一部のカリスマ的創業者やオーナーのいたところに限られ、きわめて稀であった。年功序列でトップになったサラリーマン社長のいるような企業は、ほとんど「トップまで戦術レベル」の意志決定しかしていなかった。

これでは、いわばアタマがなくて、延髄から下だけある生き物のようなものである。事実、日本の企業は、OEM的な「言われたモノを安く確実に生産する」ことはたけていたものの、自分の企業らしい個性的で付加価値の高い商品を「創り出す」ことは苦手であった。だからこそ、日本が成熟社会化し、生産コストの安さで勝負できなくなったときに、行き詰まり「負け組」化することになった。

しかし、そういう企業でも、基本的な生産機能についてはしっかりしたものがある。いわば、体力のある胴体である。問題は、胴体しかなくアタマがないところなのだ。だからこそ、そのカラダを生かせるようなアタマをくっつけてやりさえすれば、その体力も活きてくる。知恵のあるモノにとっては、日本企業はまだまだ使えるのだ。内外のファンドが、日本企業を「買い」としている理由はそこにある。

企業が買収されるということは、キャッシュフローを生み出す仕組(業務)はしっかりしているということである。どんなファンドも投資家も、収益の上がらないところに自分の資金を投下することはあり得ない。本当に腐りきった企業は、2円の株価が3円になれば50%の利幅があるというような、クズ株投機の対象にこそなれ、真っ当な投資家がお金をつぎ込むことはない。

買収されるということは、その企業が、ある面では評価されていることに他ならない。キャッシュフローを生み出すものとして、その業務機能を高く評価していなくては、リスクを犯してまで買収に踏み切ることなどあり得ないからだ。業務面においては、金を生み出す機能が充分にありながら、それを活用しきっていないからこそ、現状の評価が低くなり、その価値の差の分だけ、買収する意味が生まれる。

買収の対象になるということは、戦術はOK、戦略がダメ、ということである。そもそも日本企業では「戦略がない」のだから、こういう構図におかれている企業は多い。買収する側からすれば、戦術レベルでは変化を求めていないし、そこを評価しないのなら、そもそも買わない。これがわかっているのなら、現場的には買収されることは、なによりもウェルカムなはずである。

昨今では、IT系企業による企業買収が多く見られるが、これには理由がある。資産家の多い50代以上の層には、「ITは成長し儲かる」という幻想がある。しかし、ITの成長要因とは、基本的にコストリダクションであり、それ自体はデフレ産業なのだ。成長すればするほど、市場自体を縮小させる構造を持っている。ITで儲かるのは、IT産業ではなく、ITでコストリダクションできた産業のほうなのだ。

しかし、ある種の幻想がマーケットを覆っている以上、IT系の企業には、実際の成長性以上に資金が集まることになる。純粋なファンドはさておき、株価が高値に張りつき、時価総額が高騰している会社においては、それにしおうだけの収益性を後付けでもいいから確保しなくてはならない。そのためには、自分の現有の事業と比較して効率性の高い事業があれば、そこに投資するのが最も適切な選択だ。

投資する側は、資金調達コストは安くても、それを自らの事業で運用して、期待以上の効率を上げることが難しいから、投資先を求める。いちばん簡単なのは、ITによるコストリダクションで、収益増が期待できる業界をネラうことだろう。その最たるものが、金融、流通、コンテンツである。要は、本業よりそっちの方が儲かると思うから、IT企業が買収攻勢をかけるのである。

日本において企業買収が行われる背景と、買収する側のモチベーション。この二つがわかれば、企業買収を恐れる必要などどこにもないことがわかる。実は、買収する側より、される側の方が、実質的にはより魅力のある存在ということであり、立場は強い。それでもなお、抵抗感を持つというのは、それは何ら戦略的意志決定をせずにきたトップ層の自己保身でしかない。それなら、買収されてトップが交代した方が、株主はもちろん、社員も、取引先も、ステークホールダーは、誰もがウェルカムだろう。


(05/11/04)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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