「おたく」力






昨今、「オタク・マーケティング」がブームだが、その文脈の中で「おたく」と「オタク」との違いが認識されるようになってきた。ちなみに「オタク市場」や「オタク・マーケティング」に関しては、ぼくが1991年に出したパソコン関係の書籍の中で触れたのが、本邦最初だったりするのだが。さて、いつも言っているように、「おたく」は本質的にクリエーターであり、「オタク」は本質的に消費者である、という点が構造的に違っている。

歴史的には、1990年代前半までは「マニア界」には「おたく」しかいなかった。「マニア向けの量販品」などあり得ず、マニアになるには、多かれ少なかれ自分でクリエイトしなくてはならなかった。1990年代後半になって「オタク」が発生。世紀の変わり目とともに、マニア物の「大衆消費社会化」が進行し、マニア界も純粋消費者たる「オタク」が主流となった。

余談になるが、この変化のエポックとなったのが、ウィンドウズ95の普及と、「M君」事件ではないだろうか。ウィンドウズ95の登場までは、パソコン自体が「マニアアイテム」だった。マニアの興味の対象となっていたし、そういうマーケットがパソコンを下支えしていた。しかし、ウィンドウズ以降、パソコンは大衆市場のコモディティー化の道を一気に走りだし、パソコンマニアという存在自体が消えてしまった。

一方「M君」は、早過ぎた「オタク」である。あの時代は、「オタク」も現れ出していたものの、主流はまだ「おたく」であった。そんな中、クリエーターとしての資質がなく、純粋消費者でしかあり得ない「M君」は、マニア界でポジションが与えられるはずがなかった。一般社会でも居場所がなく、マニア界でも居場所がなかったからこそ、ああいう結果になってしまった、という見方は穿ち過ぎとはいえないだろう。

しかし、こういう歴史的経緯を持っている以上、昨今「オタク」とひとくくりされる若者の中にも、「おたく」と「オタク」の両者が併存している。現状でも、「おたく」が創り出した世界観を、大量生産により商業化し、これを「オタク」が購入する、という構造がオタク市場の基本である。そうである以上、「おたく」と「オタク」の両者がいなくては、マーケットが回らないのだ。

「オタクの街」と呼ばれる昨今の秋葉原を歩いていても、元祖「おたく」たる我々からみれば、そいつが「おたく」なのか、「オタク」なのかはすぐにわかる。それは、眼を見ればわかる。視線が違うのだ。「おたく」は眼光が鋭い。ピンスポットに焦点を当て、フォーカスを絞っている。「オタク」は眼光が甘い。漠然と全体を見つめ、どこか一点を絞りこんでいない。確かに「風体」はさほど違わないが、この眼光の違いこそが立ち位置の違いを示している。

「おたく」はクリエーターなので、廻りがどう言おうと、自分の中に歴然たる価値の基準を持っている。従って、常に自分から、自分らしさを発信している。だから、眼光が鋭い。「オタク」は消費者なので、常に廻りの動きや周囲にあるものを気にして、そこに価値の基準を求めようとしている。従って、いろいろなモノに目を配り、そこに注目せざるをえない。だから、結果的に視線が散漫になり、どこを見ているとも定まらない、ぼんやりとした視線になる。

かつて10年以上前に書いた本の中で触れたことがあるが、一流の「おたく」は、表現欲を持っているコトにおいては一流のアーティストと同様だし、探求心を持っているコトにおいては、一流の科学者と同じである。ただ、その対象が、社会的に価値を認められたモノならアーティストや科学者となり、個人的にしか価値を認められないものなら、おたくとなる、というだけの違いだ。

そういう意味では、アタマの中の構造は全く変らない。インプットするモノが違うから、アウトプットが違うというだけである。Excelは、会社の経理にも使えるし、個人の小遣帳にも使えるようなものだ。そういう意味では、70〜80年代の「おたく」の中は、本業として自然科学の研究者というヒトも多かったし、この時代の同人誌からは、実際に数多くの表現者が育っている。

もし違いがあるとするのなら、それは、他人が今だ誰も到達したことのないフロンティアを極めよう、という強い意志だろう。すでに社会的価値が確立している対象ではなく、純粋に自分が興味を持つ領域を対象とする。それが誰も足を踏み入れたことのない領域であっても、自分を頼りに、その全貌を解き明かそうとする。そのエネルギーとパワーには、並外れたものが必要だ。

だからこそ、しばしば「おたく」は、こと自分の興味対象となると、世の中一般の常識とかけ離れても、一途に没入することとなる。しかし偉人伝をひも解けば、研究に集中するが余り、社会から逸脱してしまった「偉大な学者」のエピソードには事欠かない。おたくは「異人」であるかもしれないが、その構造は「偉人」と変らないのだ。そういう意味では、ある種の「選ばれたヒト」である。

「おたく」のクリエーティブ性は、F2、M2の「元祖おたく世代」が支えているが、実は、F1、M1層にも、同じぐらいの「おたく」は存在している。しかし、この世代では圧倒的多数(もしかすると、全体を通してもマジョリティーかもしれない)の「オタク」の影に隠れてしまい、あまりその存在が見えてこない。しかし、濃ゆいヤツは、この世代でも相当にいる。それも「元祖おたく世代」より、ずっと濃いヤツが多い。彼ら・彼女らをどう活かして行くのかも、「元祖おたく世代」の役目といえるかもしれない。



(05/11/11)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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