市場原理が公共性を担保する







昨今では、すっかり「官=悪」「民=善」というイメージが定着した。しかし、ともするとこれは、単にどちらが効率的で無駄がないか、という問題にされがちである。しかし官対民の問題は、実がそれだけではない。市場原理が成り立っている社会では、競争というチェック機能に晒される「民」のほうが、そういうチェック機能のない「官」よりも、ずっと「公」の立場に立ちやすいし、立たざるを得ないという「構造的変化」のほうがさらに重要なのだ。

民の事業が、官の事業に対して構造的に「公」を担保できる理由は、「透明性」「継続性」「責任性」の三つの面からとらえることができる。まずは「透明性」である。そもそも公の立場はを担保するには、ディスクローズは必須である。しかし、官業は公開性から一番遠い。なんでも隠したがるのが役人の習性である上に、公開に対する外部からの圧力もかからない。よほどの事件でも起きて、司直の手が入らない限り、実態が公開されないのが「官」なのだ。

その一方で、昨今、日本でも定着した株主重視経営に立つ限り、企業は全てをディスクローズしなくては、資金を得られなくなった。ステークホールダーからの圧力が常にかかる以上、企業は全てを白日の元に公開しなくてはならない。それを怠れば、なにか悪いことをして隠しているのだろう、と勘ぐられ、業務が立ち行かなくなる。まさに民業であることが、即、ディスクロージャーを意味するようになったのだ。

次は「継続性」である。民業として行う以上、未来永劫その事業が継続するように図らなくては、資金を調達できない。最初から「やり逃げ」を意図していたのでは、アンダーグラウンドなブラックマネーは集まるかもしれないが、真っ当な投資家の資金を集めることはできない。おのずとその事業の計画も、一回こっきりのモノではダメで、資金が何度も回転し、リターンを生み出すモノであることが求められる。

民の事業においては、その事業が「ブランド」として確立するかどうかで、リターンは大きく変ってくる。「ブランド」を築くために必要になるのが、この「継続性」なのだ。将来とも、逃げも隠れもせず、ゴマかさないと誓うこと。これがあってはじめて顧客から信頼されるのが、民の事業の特性である。親方日の丸の官業では、継続のための努力が払われることはない。何をやってもツブれないとなれば、ゴマかし放題になるのは目に見えている。

最後は、言わずもがなの「責任性」である。公的な立場を取るためには、誰かが結果についての責任をとることが求められる。少なくとも、民間企業の経営者は、経営責任を負っている。もちろん、中にはその責に耐えるだけの仕事をしていないヒトもいるが、最終的に責任をとらされてクビになる、という意味では結果は同じである。リスクのないところにリターンがない以上、リスクを伴うのが企業経営であり、そのリスクに対しては、常に責任が発生する。

その一方で、無責任の権化のなのが「官」の組織である。官の組織は「役職」が仕事をするのであって、個人が仕事をするのではない。そもそも、役職は組織に付属しているものであって、生身の人間ではないので、責任の取りようがない。ポストを動いてしまえば、その個人が前職について責任を取る必要はないし、もちろん後任者が責任をとることもない。まさに、誰も責任を取らないですむために、練り上げられたシステムが、官僚機構なのだ。

このように、官営だから安心で公的ということはありえない。逆に、リスクやデメリットが多いのが官営なのだ。民営なら、常に競争原理も働くので、サービスの悪いものは淘汰されるし、無駄なコストが膨らむこともない。それどころか、自由競争が成り立っているのなら、民間の事業に対しては常に外部から牽制が働くため、おのずと「公」の立場に立たなくては維持できないことを忘れてはならない。

そう考えて行けば、官営の方が「公」的な事業にふさわしいというのは、いかにも「方便」であることがわかる。事業として行うのであれば、現在のような状況下では、民営の方がよほど公的立場が担保される。そうでなくては、事業として成り立たないからだ。開発途上国のように、民間に充分な資金の蓄積がなく、そもそも事業を立ち上げられないような状況ならいざ知らず、今の日本において、官営をもとめる意味がない。

官営がいいというのは、親方日の丸の既得権にどっぷり漬かっている、自治労などの組合系と、弱者ぶって、税金を払わずに「バラ撒き行政」の蜜だけはいただこうという、「革新政党」の支持者だけである。こんなまやかしはもう通じない。こういう無責任な連中にスネをかじられまくったから、財政赤字が何百兆円も貯まってしまったのだ。公的な事業でなくてはならないからこそ、民に任す。このマインドが定着してはじめて、日本に「公」という概念が生まれるのだ。



(05/11/18)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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