コンテンツの死






エンターテイメントコンテンツが、勢いのあるコンテンツ、パワーのあるコンテンツとなるためには、なにより「夢」が大事である。コンテンツの良し悪しは、面白いかどうか、楽しいかどうかで決まる。そして見るヒトを振り向かせ、ひきつけるインパクトは、「夢」だけが生み出せるからだ。「夢」にあふれたコンテンツであればこそ、興行的にも大きな成功を得ることができる。

ITとコンテンツは、ネットビジネスなど、セットにして語られることが多いが、実は近そうで極めて遠い存在である。ITは、あくまでも何かを実現するための手段である。その実現する目的の方には何らかの夢はあるかもしれない。しかし、あくまでも手段であるITには、夢を持てる余地などありえない。夢の入り込む余地があるということは、その分、まだコスト最適化の可能性が残っていることに他ならないからだ。

昨今は、コンテンツは重要な投資先として語られることが多い。夢の入り込む余地がない、という点は「金儲け」も同じである。夢があるということは、冗長性があるということの裏返しである。それは、直接的な成果を生まない無駄がある、ということと同値である。夢がある分、ROIは下がるのだ。ここで重要なのは、コンテンツをクリエイトしているヒト自体が夢を持っていない限り、夢のあるコンテンツは生み出せない点だ。

ソフトと呼ばれていた時代と、コンテンツと呼ばれるようになった時代。それは何が変ったのだろうか。着目すべきことは、コンテンツとは、クリエイターサイドからの呼び方ではない点だ。コンテンツというのは、投資家サイドや、インフラサイドからの呼び方である。それは、「夢」の入り込まない世界。「夢」の有無という視点からすると、ソフトとコンテンツは似て非なる世界といえる。

金融危機以降、日本企業の財務体質の改善が進み、効率的な資金の調達・運用を行うようになったため、産業界の資金需要自体がデフレ化し、新たな運用先を求めるニーズが高まった。その一方で低金利が続いたため、、投資家にもハイリスク・ハイリターンの意識が定着し、多少リスクがあってもそれなりのリターンが見込めるモノも、資金の運用先として考えられるようになった。

これらにより、それまで真っ当な資金の投資先としてはほとんど考慮されなかった「エンターテイメント」関連ソフトが、運用先として注目されるようになった。この結果、90年代末からのアニメブーム、映画ブームが起った。これらは、実は、内側から盛り上がったものではなく、外部から大量の資金が流入したことにより引き起こされたものである点に注目しなくてはならない。

こと日本においては、それと軌を一にして起ったのが、「コンテンツ」という呼び方である。番組や映画をコンテンツと呼ぶヒトは、少なくともその内容自体に夢は持っていない。もっとも、金が儲かるという思惑は持っているかもしれないが。事業は夢より金である。しかしエンターテイメントの中身は、金より夢が大事なのだ。この両者は、どこまでいってもモチベーションが違う。

「コンテンツ」を「コンテンツ」として見ているヒトが、エンターテイメントを牛耳っている限り、ビジネスとしては拡大するかもしれないが、文化としての未来はない。彼らだけでは、「夢」を生み出すことができないからだ。お金がいくら有り余っていても、優秀なクリエイターがこぞって集まってくる「業界」がなくなってしまっては、ジャパニメーションも何もないことを肝に念じるべきだ。




(05/12/02)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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