二つの「ネタ」






「ネタ」という言葉の意味は、実は世代によって大きく違う。これが、世代間での価値観の違いを、見事に表現している。「ネタ」を「パロディーの元」として捉えるのは、いわゆる新人類世代を中心とした、現在35歳以上の層である。これに対し、団塊Jr.を中心とした35歳以下の層では、「ネタ」といっても、単に「引用する材料」としてしか捉えない。そこには格別の意味付けが入っているワケではない。

別の用例をもって表すなら、35歳以上では「ギャグのネタ」だったものが、35歳以下では「寿司のネタ」化しているということができるだろう。「ネタ」という単語の意味からすれば、ある種「先祖帰り」ともいえる。このような変化が起ってきた理由としては、35歳以上の層が、他人のマネよりも自分らしいやり方を好む「クリエイティブ世代」なのに対して、35歳以下の層は、アリモノを利用することに躊躇のない「模倣世代」である点があげられる。

自分のオリジナリティーにコダわる新人類世代にとっては、風刺やギャグといった「斜に構えた」表ヅラで取り繕わないと、とても恥ずかしくて「引用」など出来ない。したがって、「ネタ」とは当然パロディー的な利用を前提とすることになる。また、この世代が中心となって牽引した80年代の若者文化がアンチ根暗をベースにしていることからもわかるように、当時の「お笑いブーム」をもたらしたノリが価値観の基本となっている点も、この傾向を強めている。

一方、団塊Jr.世代においては、何かを作ろうとするときにも、自分で考えたり創り出したりするよりも、ちょうどフィットしそうなモノを、適当に拾ってきて繋ぎ合わせるのが、当り前になっている。「ネタのない曲がない」といわれたのは、80年代に「パクりの王者」といって一世を風靡した林哲司氏だが、そういう意味では、「ネタのない発想はない」世代である。従って、「ネタ」の意味もジェネリックなモノになるのも当然といえる。

この違いは、生まれ育った情報環境の違いによる、情報リタラシーの「刷り込み」の違いに基づいている。団塊Jr.世代は、社会が情報化してから育った、いわば「常時接続世代」である。この世代にとっては、あらゆる情報が、わざわざ能動的に「取りに行く」モノではなくなってしまっている。情報とは、いわば水や空気のようなものであり、価値を感じない。いつでも、どこでもありふれているものなのだ。

おまけに、ネットワーク化が進むことにより、あたかも「そうめん流し」のように、あらゆる情報が身の回りに常に流れている状態が実現した。こと情報においては、いつでもどこでも、手を伸ばせば「当らずとも遠からじ」というモノなら、すぐ手に入る。よく、いつでも・どこでも情報にアクセスできるユビキタス社会、などといわれるが、ユビキタスの実態とは、実は情報のコモディティー化だったのだ。

もちろん、能動的にアプローチしないだけではなく、「常時接続世代」は情報の蓄積もしない。自分で整理して貯めておかなくても、そこいらにゴロゴロ転がっているのだから、余計な手間やコストはかけないほうがいい。ちょうど、近所にコンビニが開店すると、いろいろと「買い置き」をしておく必要がなくなるのと、同じ原理である。

まさに、団塊Jr.世代にとっては、情報の全てが二次利用、三次利用と多次利用化している。こうなってくると、何がオリジナルで、何がそのコピーなのか、誰にもわからなくなる。このような状況下では、オリジナリティーを求めるほうが難しい。しかし、この世代間の違いは、別に良い悪いではない。刷り込みが違うし、発想が違うということである。それより、その立場や立脚点の違いを互いに認識することが必要なのだ。



(05/12/16)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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