騙された責任






詐欺は騙される方が悪い。これは、永遠の黄金則だ。一見オイシそうな話には、どこかに落し穴がある。欲に目がくらんでいると、普通のヒトなら気付く、この落し穴にハマってしまい、騙されることになる。だからこそ詐欺においては、周到にリアリティーを持たせるより、M資金ではないが、「あわよくば」という相手の欲の皮にアピールできる、一見荒唐無稽なストーリーほど「よく騙される」ワザになる。

これは、なにも悪意に満ちた詐欺だけの話ではない。めちゃくちゃ安い「出物」には、どこか値引く理由になる「瑕疵」がある。しかし、その「瑕疵」と値引き分が充分につりあっていれば買いだ。またわずかなコストで、その問題点を修理・再生できる「自力」があるヒトなら、これも買いである。しかしそうでなければ、パスすべきだ。そういう意味では、自分で「瑕疵」を判断できないヒトは、そもそも「出物」にコミットすべきではない。

まさに「目利き」とは、その商品の問題点を見ぬいた上で、自己責任で行動できる人である。自己責任で行動できないヒトが、どうしても「出物」に触れなくてはならない場合は、その分コストを掛けて「目利き」な人の判断を仰ぐべきだ。表面的には「出物」は安い。しかし、「目利き」でないヒトにとっては、この「判断を仰ぐコスト」を考える必要がある。この場合、「出物」ではない、一見高めに見える「新品」「正規品」も、実はその価格差を「保険分」と考えれば、そちらのほうが安い場合がほとんどだ。

世の中、どんな商品やサービスにも、「相場感」というモノがある。健全な競争が行われ、市場経済が貫徹していれば、まさに「神の見えざる手」として、適正な相場ができる。相場より高ければ、誰も買わない。もし早く現金化しようとして安めにしたとしても、大きく相場を外す必要はない。こうなると、取引は「値ごろ」でなくては成り立たなくなる。にもかかわらず、それより安い値段で取り引きされるということは、必ず理由がある。そして、その理由をどう判断するかは、あくまでも自己責任ということになる。

もっとも、自己責任においてハイリスク・ハイリターンを指向するヒトも存在する。ギャンブルで言えば、確率上得られる期待値が同じでも、よりチャンスは少ないが獲物が大ききほうを好むヒトである。馬券でも驚くような高額配当が出る3連単が、その当る確率の低さにもかかわらず人気になるのは、そういう嗜好を持つヒトが少なからずいるからだ。手堅く当るものでは、ワクワクしない、ということなのだろう。

同じような指向性は、温泉街で、いかにも怪しそうな、どぎついピンクのネオンを掲げた店に好んで入るヒトとか、インターネットで、いかにもヤバそうなサイトやエロメールに好んで反応するヒトにも見られる。その方が、自分の求めるような「ハイリターンな刺激」が得られる可能性が高いと思うからこそ、リスクが発生するとしても、あえてそちらを選ぶのだ。

これなら、スったり、騙されりた、トラブルが起きたりしても、本人は「織り込み済み」なのだから、とやかく言うところではない。これが基本なのだ。本人が、あえてリスクを選んだのだから、そこから発生する諸問題は、すべて本人に帰される。これが基本ルールだ。だからこそ、そのリスクに気付かずに選んだヒトがいたとしても、気付かなかったこと自体に、本人の責任が問われる必要がある。

だから、騙されたヒトは、誰かに助けてもらえるという筋合いのものではない。ましてや国が補償するようなものではない。国に、何らかの責任があるかないかに関わらず、本人に「安易に騙された」という重大な過失がある以上、それを補填する必要はない。血税を払っている方からすれば、なんで自分の支払った税金で、騙されたヤツに金を恵んでやらなくてはいけないのか、ということになる。詐欺は騙された方が悪い。騙すのも、騙されるのも、自己責任でやっていただきたいものだ。


(05/12/23)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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