信じる者が損をする






今年も、いろいろな事件や出来事が世間をにぎわせた。それらの多くに共通して見られた傾向として、「結果が問われる」というコトをあげられるだろう。「甘え・無責任」では済まされない事態が増えている。もちろん、「甘え・無責任」で押し通すこともできるのだが、それでは結果的にチャンスを失ってしまう。少なくとも、コミットするかしないか、という判断だけは自己責任で行わないと、果実にはありつけない、という世界が日本でも常識化しつつあるといえるだろう。

これまた、いつも言っていることだが、祭で神輿が練り出すとき、御神酒により多くありつけるのは、実際に担いでいる人々より、周りにくっついて練り歩いているだけのヒトたちだ。まさに、今までの日本社会の、基本的構図がここにある。「甘え・無責任」で行動していても、みんなが寄り集まっているところにたむろしていれば、何らかの分け前にあずかれるし、あわよくば一番おいしいところも貰えたりする。

「甘え・無責任」なヒトたちには、主義主張があるワケではない。自分としての主義主張がないからこそ、「甘え・無責任」で済まそうという発想になる。これは、いわゆる「守旧派」と同じだ。彼らにとっては、楽したい、ズルしたい、という意志はあっても、それは何らかの戦略や考えに基づいているものではない。だからこそ、鵺のようにどこにでも姿をあらわし、誰とでもグルになれる。

こういう「甘え・無責任」派の行動の特徴の一つとして、デフォルトで「誰でも相手を信じる」というモノがある。近世までの生活習慣が残っていた時代においては、一般庶民においては、身内と身外というカタチで、自分がデフォルトで信用できる相手が限られていた。この時代においては、「よそ者」を信用するヒトはいなかった。しかし近代、特に高度成長期以降の日本社会においては、「他人を信じるコト」の意味が変わってしまった。

一方、20世紀後半の日本の大衆は、形式的には、デフォルトで誰でも信用しているように見える。しかしここで重要なのは、確かに口でこそ「信じている」と言っているが、字義通りの意味では「信じている」ワケではない点である。実は、「互いに、甘え合おう」と思っているだけだったのだ。甘え合おうと思っているなら、それはみんな仲間だし、そういう「同士」の間でなら、「甘え・無責任」な基本ルールを共有できる。これを「信じている」と称していたに過ぎない。

この最たるものが、官僚社会である。こういう組織では、暗黙のルールを守る限りは、誰もが無責任に組織に甘えられる。そして、その無責任組織は、掟を守る者なら、誰でも受け入れる。それは、関係者の頭数が多くなればなるほど、責任関係は曖昧になり、責任の所在は組織の中に埋没してしまうからだ。かくして、「あなたもわたしも無責任者、決して相手の責任を追及したりしない」ということが、相手を「信じる」ことになってしまったのだ。

確かにこのような組織では、みんながみんな無責任でいたいと思っている以上、互いに甘え合って責任を曖昧にする限りにおいては、他人から裏切られる心配はない。そういう意味では、相手を「信用できる」と言えないこともないが、それは極めて歪んだ信用である。そもそも、ヒトを信じるには、信じることができるだけの理由が必要だ。そもそも、他人をノーチェックのまま、デフォルトで「信じる」ことはあり得ない。それが、本来の近代社会のルールである。

もちろん「初期状態において、他人を信じない」ということは、別に「どんな場合でも他人を信じることがない」ということではない。判断に必要とされる相手についての情報を得た上で、ある事柄に関しては充分に信頼に足る、と結論付けることは多い。信じるためには、この判断が重要であり、ここがクリアされればこそ、生命や財産に関わるリスクについても相手を「信用」できる。これが出来てはじめて、「信じている」ということができる。

そういう意味では、今を生きている日本の大衆の多くは、本当の意味で誰かを信じたことも、誰かから信じられたこともない、ということができる。彼ら、彼女らに、相手が信じられるかを吟味し、判断しろ、といってもそれは酷かもしれない。だが、少数派かもしれないが、日本人の中にも、その判断ができる人たちは存在する。これからの日本のチャンスを拡げるのは、そういう「判断ができる」人たちだけだ。ここは一つ、「甘え・無責任」な方々には、原点に帰って、「判断ができる」人たちに責任を押し付け、ノホホンとして頂きたいものだ。そうしたら、ちょっとぐらいなら分け前が貰えるかも。



(05/12/30)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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