知己知足





今日本が抱えている問題は、その多くが、自分自身の分をわきまえていないことにより引き起こされていると言っても過言ではない。何が自分にできて、何ができないのか。何が自分にふさわしく、何が自分には過分なのか。これらの答えは、自分が何たるかを知ってはじめて出すことができる。もちろん、そもそも自分を客観視できない人間のほうが多い以上、誰でも答えが出せるワケではない。しかし、本来答えを出す能力を持っているヒトさえも、あえて答えから目を遠ざけているのが現状である。

このような傾向は、あの高度成長期の「一億総中流」という幻想から始まった。この幻想は、自分の立場や背負っているモノを省みず、他人と同じトコロだけをあげつらうことで、強化・維持されてきた。昨今言われる階層化の問題も、昨日今日に始まったことではない。高度成長期にもバブル期にも、階層は脈々として存在しつづけていた。ただ、あえて目をつぶって「アンタッチャブル」モノとし、「ないフリ」をしてきたに過ぎない。まさに、一億総中流とは「現実の自分を客観視しない」幻想だったのだ。

それは、「あるモノを見ない」限り、違いが目に入ってしまうからだ。確かに、経済成長に合わせて年収が拡大し、「去年よりも今年のほうが、数値的には大きい」状態が続く限り、現実を見ずに幻想の中に篭っていても、充分生活はできたし、それなりに幸せでいられた。しかし、その時代がラッキーでハッピーだったからこそ、それが許されたに過ぎない。いつまでも、そんな世界に安住できると思う方がおかしいのだ。

この時代を支えた代表は、なんといっても団塊世代である。団塊世代の子供にあたる団塊Jr.が社会人になるとともに、家に引き篭もって社会的な存在になろうとしない「パラサイト・シングル」や「ニート」が社会問題としてクローズアップされてきた。しかし、その親の団塊世代こそ、「幻想の世界」に引き篭もって、現実を直視しようとしなかったのだから、これもむベなるかな。現実を見るのが恐い、という意味では、同じ穴のムジナだ。

右肩上がりが望めなくなった以上、幻想の中に虚構の幸せを求めることはできない。幸せを得るためには、本当の幸せを知る必要がある。幸せとは、自分を知ることなのだ。自分を知り、その現状に満足することから幸せは始まる。その対局にあるのが、「高望み」だ。分をわきまえず、高望みをしている限り、幸せは手に入らない。高望みとは、どこまでいっても満足できない無間地獄である。対照的に、「知足」こそ幸せへの第一歩である。

今の自分に満足し、それ以上を求めない。これができてはじめて幸せは手に入る。ある種「知足」とは、江戸時代の美学であり知恵である。今あるモノで充分、それで満足すべきであり、その先は求めない。自分を見つめ、内面を磨く努力こそすれ、量や規模は追求しない。あるレベル以上のヒトが、皆こういう価値観を持っていたからこそ、エコロジカルでサステイナブルな社会が構築できた。

ある意味でこれは、文化の本質でもある。皆が皆、欲望を剥き出しにしている社会は、経済力こそあれ、決して文化を生み出さない。20世紀後半の日本は、まさにこの状態だった。評価されるものは、その経済力だけ。質的には二流の国。これが、高度成長期の本質である。しかし、江戸時代の日本は違った。江戸時代の日本は、ヨーロッパにジャポニズムを生み、その孫としてのモダニズムさえ生み出した、独自の文化を持つことができた。

これはまさに当時の日本が、量的成長ではない、質的な深化を目指す社会だったからこそ成し遂げられた。幸か不幸か、今後人口減少が進み、将来的には江戸時代の程度の人口になることが予測されている。しかしこれはラッキーではないか。いやが上にも、成長は望めない。そして、それが「知足」の時代のスケール感を取り戻す。これからの日本人だって、やれば足るを知れるはずだ。少なくとも、江戸時代の日本人には、それができたのだから。


(06/01/20)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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