秀才の終焉






ライブドアのホリエモンが、ついに逮捕された。事件の真相がどうなのかは、現在捜査中なのでなんともいえない。しかし彼のパーソナリティーに関しては、極めて重要な点がほとんど語られていないコトが気になる。それは、彼が極めて秀才であることは間違いがないが、決して天才ではないという点である。秀才という意味では、超秀才といってもいいだろう。きわめてパフォーマンスの高い「秀才」である。これが、彼の良さでもあり限界でもある点には、誰も気付いていないようだ。

秀才とは、定量的、演繹的に把握し理解し得ることに対しては、とてつもない能力を発揮する人間である。しかしその限界は、定量的、演繹的にしか世の中を理解できないところにある。その一方で天才とは、直感的に全体像を捕まえてしまうコトができる人間だ。なぜそうかを説明することができないし、演繹的に答えを導き出すこともできないが、誰も見たことのない「正解」へ、一気に到達してしまう。これは個性の違いであり、適材適所で使う分には、何ら問題はない。

さて、このような「秀才」的メンタリティーは、「地方のエース」に特有のものである。すでに1970〜80年代において、こういう「超秀才の地方のエース」しか、高級官僚を目指さなくなっていた。この時代、都会の進学校を出た人間なら、東大法学部に入ったとしても、高級官僚を目指す人間は少数である。大部分が目指すのは、弁護士か民間であった。この傾向は、今も変らない。つまり彼のアタマの構造は、高級官僚のアタマの構造と同じということになる。

彼らの考え方は、すべて知識から演繹的に導き出される。ある意味で、プログラムにしたがって動く、コンピュータと同じだ。したがって、「規則に明確に「ダメ」と規定されてないことは、やってもいい」ということになる。類推や憶測にたけていない反面、法律やルールを字義通り律儀に解釈する傾向が強いので、決められたことだけをやっている間は問題ないが、新しいことをはじめると、その結果についての善悪判断ができなくなる。ここに、彼らが道を踏み外す原因が潜んでいる。

1980年代以降日本が安定成長期に入ると、それまでのtake off期のように、傾斜生産方式に代表されるような、官庁主導で資源の最適配分を行う必要性がなくなった。中央官庁の活動は、経済成長といった外部目的を持つものではなくなった。こうなると、政策決定も行政指導も、それ自身が自己目的的なものとならざるを得ない。このような環境下ゆえ、官僚の行動規範は、明確に「ダメ」と規定されているもの以外は「何でもあり」となってしまった。

もともと1940年体制は、無産者出身の「維新官僚」や「高級将校」が主導したものゆえ社会主義的体質が強く、その本質に「無責任」さ「非当事者性」を孕んでいる。自分でなく、肩書がやった、というヤツだ。そういう人たちが構成する組織が自己目的化すれば、この無責任体質が一層強調されることになる。その結果、「ダメなコトさえやらなければ、責められることはなく、責任もない」という、「確信犯」的行為が現出することになる。これが、昨今の官僚システムの腐敗の原因である。

一連の霞ヶ関の不祥事、厚生省の不祥事にしろ、外務省の不祥事にしろ、その原因はここにある。明文化されたルールと前例だけをリファレンスとしている彼らにとっては、ダメと規定されていなかったり、前任者がやっていることならば、当然「ルール内」のこととされてしまう。彼らは秀才であるがゆえに、社会的な倫理感やバランス感を持っていない。世の中がどう見るかには、影響されないのだ。

かくして、明文として禁止されていない限り、脱法行為ぎりぎりのコトをやって、利権を拡大する。直接の天下りが禁止されても、一旦に別の組織に身を置けばOKとか、公益法人を民営化することで、天下りポストを自由に増やせるとか、天下りに関わる霞ヶ関の論理など、この典型である。また、そのロジックが美的である限り、繰り返すたびに、自ら「真実」と思えるようになるのも、秀才の陥りやすい罠である。

一方、現業部門や地方公務員の中には、「みんなでやってることなら、バレない」という無責任メンタリティーが充満している。経費予算の余りをカラ領収書でプールしておき、お手盛り的に使ってしまおう、というヤツだ。もちろん、在外公館では外務省の官僚がこの手の操作をしていたわけで、別にこれはノンキャリアだけの話ではない。確かに、どこからが黒でどこまでが白かというのは、極めてアナログ的、連続的な世界で、法律のようにはっきり線が引けない。

それをいいことに、明らかに白なものから、明らかに黒なものまで、スキ間なく連続させてしまえば、誰も責任を問えなくなる、という手口だ。白、黒、グレーが混在していれば、帰納的にしか善悪の判定はできない。演繹的な論理をベースにしている限りは、どういうロジックや基準を使ったとしても、合理的に責任を問えないのだ。結果、責任のありかは混沌の中にまぶされてしまい、やったもの勝ちの世界となってしまう。

世が世なら、堀江氏は間違いなく高級官僚になって出世していただろう。そういう意味では、メンタリティーやアタマの構造は、ウリ二つである。高級官僚からすれば、時代の寵児となった彼が、ネタみの対象でしかないことは良くわかる。いわば、近親憎悪。一連の騒動は、秀才の間での「内ゲバ」にしか見えない。彼は、だからこそ、狙われた。ある意味では、秀才なだけでは渡って行けない時代になる途中で、起るべくして起った事件といえるかもしれない。



(06/01/27)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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