阿吽の呼吸







昨今、建築関係を中心に、いろいろな偽装、疑惑が続出している。しかし、これらの事件は決して特殊な例ではない。そもそも、建築・不動産関係では、昔からいろいろなゴマかしが横行していた。いつの世にも、売主の側の詐欺的な行為は目立つが、それ以上に問題なのは、業者と施主が一体となった、予定調和の「馴れ合い」の結果として起る偽装である。これは、ある種の「談合」の結果といってもよいだろう。

もちろん、手抜き工事や強度の偽装は言語道断である。しかし戸建て住宅では、正直なプランで建築確認をとる人間がいないのも、また事実である。建築確認用は、建蔽率や容積率に合わせた設計でとるものの、一旦確認が取れたら、一部屋増やすとか、もう一階ロフト的にフロアを増やすとか、ある種「常識」でもある。「建ててしまえば勝ち」なのだ。もちろん、その場合も構造計算はキチンとなされているのが前提ではあるが。

このように、こと建築の世界では、タテマエとホンネが乖離しているのが常識だ。これは、建築物というモノが、個人が支出するものの中では、極めて金額が張るものの一つだからだ。高価だからこそ、ちょっとでも割安にしたいし、ちょっとでもオマケをつけたい。庶民のホンネは、ルールを守ることではなく、「ゴマかしきれる範囲内で、できるだけ得をしたい」というところにある。

並行輸入の超高級外車なども、構造は似ている。こういうクルマでは、車検のときこそ、日本の保安基準に合わせた「改造」を行い、検査を通すものの、一旦通ったら、オリジナルに戻すのが「常識」である。日本仕様ではなく、原産国のオリジナル仕様に乗りたいからこそ、正規ディーラー物ではなく、わざわざ並行輸入するのである。だからこそ、輸入業者はユーザーの「意を汲んで」、このぐらいのサービスをしてくれるのだ。

それと呼応するがごとく、審査する「官」の側も、タテマエの範囲でしか検査は行わない。それは、そもそも「官」の検査、管理システムというのが、実質としてある基準を徹底しようというものではなく、「官」の責任が問われないために作られたものだからだ。この絶妙のコンビネーションが、「検査さえ通してしまえば、あとはやり放題」という、日本特有のホンネ天国を現出させている。

このように日本社会は、基本的にゴマかし天国なのだ。タテマエとホンネがあるということ自体、日本人は、基本的にタテマエをバカにし、ホンネに忠実であろうとしていることを示している。日本の庶民は、江戸時代以来、まさに「旅の恥はかき捨て」、「鬼のいぬ間の洗濯」といういきざまを貫いてきた。そういう意味では、一連の偽装・疑惑に対し、100%身の潔白を主張できる日本人はいないだろう。

誰も見ていなければ、誰にも知られなければ、タテマエではなく、ホンネの方をとる。いや、誰かが見ていたとしても、誰かに知られたとしても、その「誰か」が自分と同じ「価値観」を持った人間なら、堂々とホンネを開陳するだろう。これは、「良い・悪い」ではなく、近世以来数世紀に渡り「無責任社会」を生きてきた、日本の大衆の実態である。そうである以上、ホンネを重視するか、タテマエを重視するか、対応は二つしかない。

ホンネを重視するなら、タテマエは一切ヤメるしかない。一切の規制や許認可はヤメてしまう。当然のコトながら、完全な自己責任社会になる。極めて合理的で美しい価値観の世界だが、個々人の意志決定は、重大で骨の折れる仕事になる。「自立・自己責任」な人間なら、今でもそうやっているのだし、決して不可能な生きかたではないが、「甘え・無責任」で、そもそも責任のとり方を知らない日本の大衆の多くには、ほとんど不可能な選択ではないか。

となると、タテマエを重視することになる。幸か不幸か、「甘え・無責任」な日本の大衆は、不特定多数の監視下では、極めて実直な行動をとる。簡単な話、秘密警察でも作って、密告網を完備すればいい。チェックが入るというだけで、日本の大衆ほど礼儀正しくなる人たちも少ない。世界でもまれな、正直で堅実な国民になるだろう。さて、「甘え・無責任」な、日本の大衆の皆さん。どちらをとりますか。どっちつかずは、もう許されませんよ。



(06/02/03)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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