「言葉の力」だそうな






文部科学省は、またぞろ、次期学習指導要領の原案で、大幅な方針変更をするという。現行の「ゆとり」教育をあらため、確かな学力をつけさせることを主眼に、「言葉の力」教育に転換する方針だとか。日本の教育行政の歴史知っているヒトならすぐにわかると思うが、またしてもダッチロール。いつまでたっても、「いつかきた道」の繰り返し。なんとも懲りないものだ。

明治以来、教育行政は一貫した方針がなく、常に振り子のように、行ったり来たりの振動を繰り返してきた。ある方針をとったとすると、それに対する批判や反対が唱えられる。すると、それに過剰反応してとり入れるため、逆の方に触れすぎてしまう。今度は、逆の立場の方から批判や反対が唱えられる。これまた過剰反応をはじめ、同じことを繰り返す。

社会システムや、政治・行政制度がどう変ろうと、この教育行政の無策さだけは一貫してきた。これは、「教育」を中央集権的に管理しようという矛盾が引き起こした、構造的な問題である。そもそも「中央からの指導」というものに構造的になじまない「教育」という分野で、中央の官僚たちが、自分たちの存在感や指導力を発揮しようとしているからこそ起ったのだ。

教育というものは、教育される側個々人の、能力や性格に大きく影響される。工業製品の生産とは違い、同じことをインプットしたからといって、同じアウトプットになるとは限らない。1を聞いて10わかるヒトもいれば、20聞いてはじめて10わかるヒトもいる。自分で答えを「発見」するのが得意なヒトもいれば、誰かからヒントを貰わないと答えに到達できないヒトもいる。

このように、教育は、プロセスという面から考えると、本質的に個別的にならざるを得ない。これを、中央から一律に管理・指導しようというところに、そもそもの矛盾がある。もちろん「社会人としての基礎・基本の習得」というような、共有されるべき「教育の目標」ならば、これは中央から一律に設定可能である。しかし、それを実現するためのプロセスは、決して一律ではない。

目標が一律だからこそ、プロセスは一律にはならない。ここが、教育の本質であり、重要な点である。しかし、目標の設定だけでは、なんの利権も許認可権も生まれない。これでは、官僚にとっては、教育行政は官庁としての意味がない。「利権」がないのでは、ボランティアと同じである。そこで、本来一律でないプロセスまで中央から「指導」することで、政策官庁としての「利権」を生み出そうとするのだ。

世の中には、別に難しい字がかけなくても、つり銭以上の計算ができなくても、それでいいというヒトもたくさんいる。こういうヒトには、「ゆとり」教育の方がふさわしい。教育にかける時間は最低限にして、子供の頃から消費者として使える時間を多くした方が、よほど世の中の活性化に貢献するだろう。教室にいるより、ゲーセンにでも行っていてくれたほうがいい。

その一方で、より高度な知識やノウハウを学習したい、というニーズがある層もある。その層にとっては、「ゆとり」は不満だろうし、そういう学校に行くこと自体が「時間の無駄」になる。学校に行くより、最初から「キチンと学習をさせてくれる塾」とかに通った方が、余程時間が有効利用できる、ということになるワケだ。こういう合い入れないニーズを、一つの器に押し込もうとしているのだから、ウマく行くわけがない。

そういう意味では、こと教育に関しては、プロセスに関する中央官庁の指導、ということ自体が、問題を起している。指導は「最低限の到達目標」だけで良いはずだ。それをどう実現するか、それ以上のプラスαをどこまでやるのか、といったことは、個別に任せればいい。あとは、自由な選択ができるようにさえなっていれば、選ぶ当人の問題である。きれいに拭けさえすれば、トイレでの「尻の拭きかた」を、行政が口うるさく「指導」しても意味がないのと同じことだ。


(06/02/17)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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