社会的コンピテンシー





少なくとも20世紀後半の日本においては、エリートと高偏差値は同値であった。「高偏差値エリート」の典型といえば、高級官僚である。しかし、80年代以降の高級官僚には、お世辞にも人徳があったり、リーダーシップがあったりするヒトはいない。元来、エリートとはリーダーシップに溢れる人材のことであり、勉強ができてテストの点がいい人間のことではない。どうして日本では、こういう「ねじれ」が起ったのだろうか。

高級官僚の発想は、秀才のメンタリティーにある。まさに、あのホリエモンと同じ発想だ。したがって、「悪いと決められていないことは、やってもいい」ということになる。ここには、「人間としての判断」はカケラもない。しかし、彼らはそもそも、定量的、論理的にしか判断できないのだ。秀才という評価基準には、人間性の視点が入っていないのだから、これは仕方がないことなのだ。

倫理的な善悪判断は、勉強ができればできるというハナシではなく、地アタマがよく、人格も優れていなくてはできない。まさに、リーダーシップとは全人格的問題である。それは、知識の問題ではないゆえ、教育でどうにかなることではない。秀才が必要とされたのは、そういう時代背景があったからだ。そして、その前提となる社会環境が変わってしまった以上、そういう過去の常識は、通用しない。

教育により秀才を育てれば、それなりの地位や財産が得られたのは、情報化が遅れていた社会だからこそ起った現象である。かつて、情報処理は機械により行うコトはできず、人間が労働集約的に対応する必要があった。このような時代においては、組織の運営管理のためには、多数のホワイトカラーの手数と、それを効率良く運用するための官僚制機構が必要だった。知識教育の成果として求められたのは、こういう「情報処理」要員だった。

勉強ができる秀才は、こういう組織運営の手数として最適だった。そういう人材がどの組織でも必要であるとともに、誰にでも簡単にできる単純労働ではなかったがゆえに、厚遇されただけのこと。今や、こういう作業は、コンピュータやネットワークで充分処理できる。秀才なら、努力すれば、なんとかなったというのは、こういう時代背景だったからだ。もはや、高い教育を受ければ立身出世が可能という時代ではない。

さて、器が大きい人間になるための前提条件は、「育ち」による。「育ち」とは、教育や努力でどうこうなるものではない。教育は、良いところを発見し伸ばすことには大いに貢献するが、そもそもない能力を開発するコトはできない。ましてや、教育で人間の本質を変えることはできない。そういう人格に関する問題は、教育の関わる範囲ではない。これもまた、秀才をエリートとこじつけてきたことの弊害である。

さて、この「こじつけ」はどこから起ったのだろうか。その発端は、戦後日本の実質的なスタート地点といわれる、戦時下の「40年体制」に求められる。40年体制の主役となった、維新官僚も、青年将校も、その多くが無産者出身であった。彼らは、それまでの有産者を中心とする自由主義的体制に変り、無産者中心の社会主義的な体制を作ろうとした。

そのプロセスで、「育ちが悪い」無産者が、権力に近づきその座を奪うためには、人間性ではなく、偏差値で人間を評価するシステムが必要だった。まさに偏差値システムとは、40年体制を確立するための、礎石だったのだ。かくして、軍人も、官僚も、人格ではなく、試験の点数だけが判断基準となった。これが戦後も脈々と続いた。偏差値主義とは、人格にもとる者が「成り上がる」ための制度だったのだ。

では、それ以前の日本においては、何がエリートの基準だっただろうか。それは武士道に求められるべきだろう。ノブリス・オブリジェとしての武士道を心得た人々がいたからこそ、明治期の日本は、着実に発展することができた。その武士道の極意は、「教育」ではなく「育ち」により伝えられる。各種制度のみならず、日々の生活そのものの中に、武士道が相伝される仕組がビルトインされていたからこそ、社会が機能していた。

もちろん、武士の中にも無責任な輩は少なからず存在した。しかし、志の高い人材を必ずや生み出しうるようなシステムになっていたコトのほうに着目すべきである。少なくとも、人間的にダメな親の下から、まともな子供が育つことはない。子供は、親を見て育つからだ。子供が、人間としてのあり方を学ぶのは、親の言葉ではなく、親の態度からである。自分のできないことを口先だけで子供にやらそうとしても、所詮は無理なのだ。

これは、貧富とは関係ない。結果的に貧しく身を落としていても、清貧で、人間的には立派なヒトもいる。逆に、金だけは持っているが、成金で、心の卑しいヒトもいる。人間としてキチンと育てられたヒトは、キチンと行動できるし、それを見た子供もキチンと育つ。人間性は、ミームとして受け継がれる。後天的な教育や財産で、どうにかなるようなものではない。

まさに、真のリーダーシップを支える人徳は、人間としてのコアコンピタンスである。そして人徳は、そのヒトが社会から必要とされ、社会の中で活躍するための、社会的コンピテンシーでもある。こういう世の中でも、それが親から子へ着実に伝わるものである以上、器の大きいヒトは必ずいる。今、日本に必要なのは、そういうヒトを探し出して、しかるべきポジションにつけることなのだ。


(06/02/17)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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