破壊と創造





「『所得格差』があるかないか」とか、「『学力低下』は教育格差のせいだ」とかいったような「改革」や「競争原理」への見直しの声が、このところそこここで喧しくなってきた。そもそも、「甘え・無責任」な人間が多数派で、「一億総既得権者」たる日本社会で、改革がすんなり進む方がおかしいワケで、このぐらい「抵抗勢力」の主義主張が明確な方が、本来、改革への士気も高まるというものである。

小泉首相が真の改革者かどうかはさておき、改革に必要な「旧体制の破壊者」、それも強力な破壊者であったことは、後世の歴史家の言を待つまでもなくあきらかだろう。しかし、改革に「破壊者」は必要だが、破壊は改革ではない。それは、真の改革の実現からすれば、「はじめの一歩」に過ぎない。そういう意味では、これからは「改革のための建設者」ののステージが用意される。

新しいビルを建てるには、まず古いビルを解体し、整地しなくてはならない。ここで活躍するのは、破砕機のついた解体仕様の重機や、整地用のパワーショベル、ブルドーザといった建機だ。しかし、いざ建設が始まると、これらの重機の活躍は終わり、クレーンや溶接機の出番となる。改革が、現行システムの「スクラップ・アンド・ビルド」である以上、求められるステップは全く同じだ。

「破壊者」と「建設者」。こういう役回りの違いは、歴史上いろいろなところに見つけることができる。近くは、20世紀後半の日本社会における、「団塊世代」の役割だ。団塊世代は、確かにそれ以前の戦前派とは異なる価値観を持っていた。しかしその違いは、「アンチ・アンシャンレジーム」というだけで、新しいビジョンを持っていたわけではない。しかし、その圧倒的な数により、旧体制は完璧に破壊した。

その後、新しい価値観を創り出したのは、いわゆる「新人類」以降の世代だ。彼ら・彼女らは、団塊世代が通り過ぎた後、完璧に破壊され、文化的な「更地」となっていた日本社会を、新しい色に塗り替えた。明治維新でも、幕末に活躍した「勤皇の志士」たちが、テロリストとして華々しく散り、その命と引き換えに体制を破壊したからこそ、その後「明治の元勲」となった建設者たちが登場できたのだ。

そういう意味では、今は「破壊の総仕上げ」の時期と位置付けることができるだろう。改革派と守旧派の間での睨み合い、もみ合いから、事実上、優劣が誰の目にも明確に捉えられるようになってきた。実は、形勢は圧倒的に改革の方に有利である。だからこそ、様子を見ていた守旧派も、腰を上げざるを得なくなってきた。昨今の状況は、こう位置付けることができるだろう。

そもそも、古今東西の戦史をひも解いてみれば、激戦になるのは決まって「雌雄が決した後」ということに気付く。それまでは戦線が伯仲し、拮抗する睨み合いが続いていても、一旦優劣が見えるとバランスが崩れる。睨み合いの間は、小競り合いはあるモノの、命懸けの消耗戦になることはない。この間の損耗率は、死傷者が出たとしても、充分補充可能な範囲である。

しかし、一旦雌雄が決すると、状況が変る。劣勢に立たされたものは、生き残るために命懸けで闘わなくてはならなくなる。ここではじめて、熾烈な闘いが繰り広げられることになる。劣勢な方が、生きるか死ぬかの総力戦を仕掛けてくれば、優勢な方も応戦し、敵を殲滅しなくてはならなくなる。太平洋戦争の死傷者も、圧倒的に、ミッドウェイ以降優劣がついてからのものだ。

とはいうものの、これはゲームに例えれば「ざこキャラが、数に任せて攻めてくるのでウザい」状態である。ここは一つ、破壊者の最後の仕事として「ざこキャラ潰し」に邁進してもらうしかない。その間に、改革の次のフェーズたる「建設者」にご登場願えればいい。そういう意味では、守旧派が破壊者との総力戦に明け暮れている今こそ、真の改革者が誰かを見極め、ステージに登場願う重要な時期なのだ。


(06/03/10)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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