結果責任を問う





日本の法律では、当事者に責任能力があるかないかを重視し、責任能力がある場合にのみ、結果責任を問う形式をとっている。しかし、良く考えてみると、これはおかしい。結果責任ではなく、道義的責任を感じるかどうかであれば、当事者の能力による差は大きい。道義的責任を感じない人間に対し、道義的責任を求めることは、全く意味ないことであると言っても差し支えない。

しかし結果責任は、事実関係である。当人が悪いコトとわかっていようがいまいが、起ってしまった事実と、そこで引き起こされた損害は変わらない。「責任を取れ」ということは、第一義的には、結果責任として損害を償え、ということである。過失であろうと、責任能力がなかろうと、損害賠償を求められるのと同様に、損害に対する結果責任を求めることができなくてはおかしい。

被害者にとっての損害は、精神的な損害と、物質的な損害とからなる。このうち、精神的な損害は加害者の道義的責任によってしか救われない。よって、この面での補償を求めるには、加害者の「道義的責任」に対する責任能力が大きく関係する。しかし、物質的損害に対する「オトシマエ」なら、加害者当人のあり方とは関係なく、いくらでもつけることができる。

たとえば、飼い犬が鎖を引きちぎって逃げだし、通行人を噛んでケガをさせたとする。犬自身は、そもそも人間社会からすればアウトサイダーであり、当然責任能力はない。治療費等は結果的に飼い主に対し請求されるだろう。しかし、犬がそれだけで済むことは少ない。結局、保健所に引き取られたり、扼殺されたりするだろう。そうすることで、犬自身も「オトシマエ」がつけられるからだ。

結果責任には、この「オトシマエ」の発想が重要なのだ。責任能力があろうがなかろうが、社会的に「オトシマエ」をつけさせることはできる。刑事犯が罪を問われない状況になったときに、みんなが感じる「モヤモヤ」感は、まさしくこの「オトシマエ」をつけて欲しいという不満である。そして、「オトシマエ」は責任能力とは関係ないことも、みんな知っている。

人間社会の本来のあり方としては、自然状態というか、すべて各人が武装し、自己責任で「オトシマエ」をつけることが望ましい。人類の歴史をみれば、そういう時代が何万年も続いていたわけで、そっちが本来のあり方である。しかし、技術が進むことで、暴力手段の破壊力が劇的に強化され、一対一の対決のはずが、周りの人間まで巻き添えを食う危険性が増してきた。

このため公的権力が、「各個人に代って」社会的にオトシマエをつけさせる、というシステムが、文明社会になってから生まれてきた。そうである以上、このシステムは、社会的な「オトシマエ」がつくモノでなければ、再び私法の世界に戻らざるを得ないことは明白である。個人的には、マッドマックスではないが、そういった全て実力勝負の「戦国乱世」のほうが理想なのだが、みんながこれをやると、大変なエネルギーの浪費につながるコトも確かだ。

そうなるのがイヤというのなら、当事者に社会的に「オトシマエ」をつけさせるシステムだけは、完備させなくてはならない。どういう由来で起ろうと、結果は結果である。結果を正当化させる理由はない。結果に対しては、犬だろうと、機械だろうと「オトシマエ」はつけさせる。ましてや人間である。未成年だろうと、精神に障害があろうと、結果責任は問うべし。それが、文明社会を守る砦になるのだ。


(06/03/24)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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