学歴社会を支えるもの






超大衆社会の日本は、社会全体が、大衆が気に入り、喜ぶようにしかすすまないという意味では、超民主主義社会でもある。おまけに、昨年の総選挙でも示されたように、大衆は基本的に論理的・理性的選択はしない。ただひたすら、好きな方、おもしろい方を選ぶのみである。結局、日本社会で起っている現象は、すべて大衆にとって「好ましい」コトと言うことができる。

さて、久しく日本は学歴社会といわれ、その弊害が問題視されつづけてきた。人間性より偏差値、という無産者の「なりあがり社会」である40年体制の初期においては、確かに、学歴・偏差値で人間を評価する必要性があったし、その意味では社会体制が「戦略的な学歴社会化」を求めていた、ということもできるだろう。しかし、その視点が意味を持つのは高度成長期までである。

一方、80年代以降の「超大衆社会化」した日本においては、大衆の支持がないことは、いかに権力を傘にしようと、社会的な広がりは持ち得なくなった。しかし、それ以降の時代においても、「学歴社会」は歴然と続いている。もしかすると、それ以降の方が、社会のあらゆる面で「偏差値化」が定着し、学歴社会がより強固なものとなっているといえるかもしれない。

ということは、今の日本においては、大衆自身が学歴社会を支持し、支えているコトを意味する。学歴社会の基準は、偏差値である。偏差値は、平均値からの乖離を元に計算される点が、絶対点数とは異なる。分布があるから標準偏差が算出でき、偏差値が計算できるのであり、全員が100点満点を取ってしまえば、絶対点数としては「大変よくできました」ということになるが、偏差値はつけられない。

高偏差値ということは、あくまでも分布曲線の上限の方の「少数者」である、ということと同義である。すなわち、偏差値の定義からして、高偏差値者はあくまでもマイノリティーであり、中・低偏差値者のほうがマジョリティーにならざるを得ない。ということは、日本の大衆の中では、高偏差値である学歴社会の成功者より、低偏差値である学歴社会の非成功者の方が多数なのだ。

そもそも、超民主主義社会、超多数決社会、超大衆社会、の日本である。学歴社会もまた、大衆の支持があり、大衆に好まれなくては成り立たない。そういう意味では、学歴社会を支持しているのは、少数者である高学歴者ではなく、多数者である低学歴者ということになる。一見矛盾するようだが、大衆に支持されるからこそ、学歴社会はなくならないのだ。

では、低学歴者である大衆にとって、学歴社会のメリットとはなにだろうか。それは、学歴社会が、「甘え・無責任」という、日本の大衆の行動原理に極めてフィットするからだ。そもそもの才能の有無という問題もあるが、全ての大衆が潜在能力を持たないわけではない。ある一定確率では、可能性を持った人材も存在している。それが発揮されないのは、端的に言えば「努力するのがイヤ」だからだ。

かくして、もともと無責任な連中は、努力しないのを「ヒトのせい」にできるエクスキューズを求め出す。そこで登場するのが「学歴社会」である。これさえあれば、自分の能力のなさ、自分の努力しなさという、自分の責任に帰すべき問題を、「学歴がないため」という社会的問題にすり替え、無責任化できるのだ。そう考えてはじめて、学歴社会の正体を理解できる。実は、これは問題でもなんでもないのだ。


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(06/03/31)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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