リベラルの矛盾






昨今の日本は、超大衆社会としての面目躍如というべきか、最終的な社会の選択のほぼ全てが、あらゆる面で、大衆の望むところとほぼイコールになっている。独裁的な権力や、社会を牛耳るパワーは、もはやどこにも存在し得ない。一見権力に見える存在も、最終的には「大衆」のご機嫌を伺い、望むところを実現しているだけである。ひとたび大衆の機嫌を損なえば、たちまちその立場さえ危うくなってしまう。これが、超大衆社会の本質である。

リーダーシップが崩壊したため、マーケティング的に社会を捉え、大衆の望むところを提供しないと、そっぽを向かれてしまう、ということもあるかもしれないが、基本的には大衆の持つ「数」というプレゼンスが、あらゆる局面でパワーを発揮している。これは、「民主主義」という政治体制を肯定する立場に立てば、ある種の理想的社会構造だ。見方を変えれば、今の日本ほど「民主的」な国はない、ということができる。最後、最高の社会主義国家と呼ばれた面目躍如、というところだろうか。

現在の日本の状況を、ぼくが個人的にどう評価するかはさておいても、少なくとも、民主主義を金科玉条のごとく「至上の原理」と捉える立場に立つ方々にとっては、悪いどころか、至って望ましい状況といえるだろう。こんなに「民が主」な社会はかつてなかったし、手放しで絶賛してもいい。しかし、昨年の9月11日の総選挙での小泉自民党の大勝利以降、どういうわけか「リベラル」なヒトほど、大衆の意見が正しく反映されている昨今の状況に対し、否定的なコメントを出す色合いが強まっている。

「リベラル」を標榜し、民主主義こそ正しく、信奉する、と宣言している以上、多数派である「大衆」の選択は、それを正義とみなして従わなければならないハズである。現状の日本社会は、少なくとも多数の「大衆」は望むがままに進んでいる。現状起っていることは、大衆が、自ら望み、選んでいることである。このような状況に、民主主義を肯定する「リベラル」派が、どうして棹を刺せるのか。

人々が、その流れに満足している以上、それをあるがまま受け入れるのがリベラルの基本たる「民主主義」ではないのか。民主主義においては、選択決定権においては、どの人間も一人の人間という価値においては差がないという、「平等」が原則である。リベラルを主張する有識者や学識者も、大衆の一人一人も、「意志決定については等価」というのが民主主義ではないか。

それをベースとして、「数が多い方を選択する」という原則を基本にしている以上、不正がなく、民意を正確に反映していると考えられる結果には、それに従うしかなく、口をさしはさんだり、結果を否定するような行動は取れない。「大衆は愚衆である」とし、大衆の民主的な選択結果を否定するのなら、最初から民主主義を支持すべきではない。民主主義の正当性を捨ててしまわなくては、自己矛盾をきたす。

こう見て行くと、結局、「リベラル」とはなにか、その化けの皮がハゲてしまう。リベラル派は、大衆の支持者でも、味方でも、応援者でもない。リベラルという主張は、所詮、大衆を愚弄し、その期待をもてあそぶコトで、その数だけを利用し、自分たちにだけが特権的で都合のいい社会構造を作ろうという、きわめて独善的、ご都合主義的な考え方でしかないのだ。

かつての社会主義諸国では、一部の特権エリートだけの利害だけを尊重し、多くの大衆の犠牲の上になり立つ体制が多かった。また日本においても、リベラルを標榜する組織は、「革新政党」や「労働組合」に代表されるように、一部のために全体が奉仕する組織でしかなかった。ある意味では、この「全体は一部のために」という独善的な考え方こそ、リベラルや社会主義、共産主義という「無産的」な考え方の本質である。

リベラルというのは、このように、大衆を騙し、その数の力だけを利用する「まやかし」でしかない。けっきょくは、「大衆は愚衆である」という考え方を前提に、本当のコトは多数には「知らしめない」ことにより、一部の指導者たちだけに都合のいい組織や社会を作ろうという運動に他ならない。かわいそうなのは、こういう指導者に騙されてきた20世紀の大衆である。しかしその大衆も、「あわよくば」という欲に目がくらんで、支持したのだから、自業自得かもしれないのだが。

もっとたちが悪いのは、この一部の指導者たちは「人徳がある」とか「リーダーシップがある」とかいうのではなく、この仕組に気がつく分「他よりズル賢い」というだけの違いでしかないという点だ。大衆の中で、多少秀才だったというだけの人たち。まさに、同じ穴のムジナを騙しておいしい思いをする。情報化が進んでいない世の中ならいざ知らず、「知らしめる」ことなどできないほど、21世紀の社会では情報がコモディティー化した。こういう状況下では、もはや「リベラル」など前世紀の遺物以外の何物でもない。




(06/04/07)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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