メディアのこれからを決めるもの







今までのメディア論においては、インフラ技術や、メディア環境、制度変化といった視点から、これからのメディアのあり方を考えることが多かった。しかし、インターネットにしろ、ケータイにしろ、メディアの機能自体は、今という時代を生きている人々に平等に開放されているにも関わらず、その接し方や使い方は世代により大きく異なっている。

これからもわかるように、メディアに変化を与えるファクターとしては、メディアそのものの変化以上に、受け手の側の情報行動や情報リタラシーの影響のほうが強い。したがって、これからのメディアの変化を考えるには、これからの社会の中心となる世代が、どういう情報接触や情報行動をとるかということのほうが重要になる。

この場合、最も重要なポイントは、「社会の情報化の進展とともに、人々にとって「情報」の持つ意味や価値が大きく変化してしまったことである」、と言うことができる。メディア接触や情報行動に関する調査データをコーホート分析して得られる結果を見ると、1955年〜1960年あたりと、1967年〜1970年あたりに、構造的な変化が見られる。

昭和30年代以降に生まれた世代(現在50歳以下)が、それ以上の世代と比較して特徴的なのは、「真実」とは、社会的・客観的に存在するものではなく、自分の「好き・嫌い」に基づいて主観的に決められるもの、という点である。したがって「天下の公器」や「オピニオンリーダー」は必要なく、色のつかない情報が提供さえされれば、あとは自分が主観的に選択するのみである。

昭和45年以降に生まれた世代(現在30代半ば以下)に特徴的に見られる傾向は、「情報」とは、常に「そのあたりにいつもあふれている」ものであり、金を出して手に入れたり、大事にとっておいたりするような、「価値のある」ものではない、と感じている点である。この世代の日本人にとっては、「空気」「水」「情報」が、最もありふれた「三大コモディティー」となっている。

では、「情報のコモディティー化」時代のメディアのあり方とはどのようなものであろうか。情報に価値を感じない以上、メディアにも特別な価値やパワーを感じない。すでに「ジャーナリズム」は、存在意義を失っているといえる。その一方で、メディアとは刹那的にヒマをつぶすためのもの以上のなにものでもなくなっている。

顧客が「まったりとしたエンターテイメント」を求める以上、早く「脱ジャーナリズム宣言」をし、顧客が求める「暇潰しメディア」とならない限り生き残りは難しい。しかし、それさえできれば、今後もかなりの長期に渡って、優位性を維持することが可能だ。それは、現在30代半ば以下の世代の「もう一つの特徴」に由来する。

実は、現在F1層M1層に属する若者の多くは、メディアと能動的に接触することに耐えられない。今の中高生は、その過半数がマトモに辞書を引けないといわれる。ちょっと考えても、辞書を引けない人間が、検索などできるはずがない。いかにインタラクティブなインフラを使っても、受動的に使うコンテンツしか大衆的にヒットしない時代になっている。

これからは、「新人類世代」以下の世代、とりわけ「団塊Jr.世代」以下がマジョリティーとなる。彼ら・彼女らの意識や行動のベースとなっているメディア感や情報リタラシーは、今までの社会で主流とされていた世代のそれとは、全く異なる。今後のメディアの変化を考える上では、テクノロジーや制度以上に、この「ユーザーサイドの変化」をまず念頭に置かねばならない。




(06/04/14)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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