定期異動






役人が象徴的だが、民間でも金融等の許認可業種に限って特徴的な制度に、定期異動というモノがある。要は、同じ職場に居続けないように、2年とか3年とか、そこに居られる最長期間を決め、それを超えた職員は、強制的に違う職場に異動させてしまう、という制度である。もちろん「官」のシステムなので、制度そのものには(屁理屈ではあるが)それなりの理由付けがなされている。

それは、同じ職種を長く続けると、癒着や不正が起きる危険性があるので、一つの職場に居られる期間を限定してしまう、というものである。とはいえ、癒着や不正をする人間は、在職期間が長期に渡らなくても、すぐに「抜け穴」を見つけてはじめるワケだし、こういう制度があっても、役人といえば、決まって利権を築き、汚職や不正をするワケで、制度があろうとなかろうと、全く意味をなさないことは自明である。

そもそも、純民間ではこういう制度はあり得ない。商社では、本人が異動を希望しない限り、入社以来同じ部門で働き続けることが多い。広告会社では、同じ得意先を十年以上担当しているベテランの営業も多い。それだけでなく、そういう「一筋」なヒトほどクライアントからの信頼は厚い。さらには、経営コンサルタントや弁護士、会計士といった専門職では、同じクライアントの、さらには同じ担当者との何十年にも渡る関係性が取引のベースとなっている。

民間では、競争原理が常に働くため、長期に渡って同じ相手と取引ができているということは、即、相互の信頼性が高いということを意味する。癒着の全く逆で、常に誠心誠意対応しているからこそ、扱いが続くのである。一般に、短期的に業績をあげることは、そんなに難しくはない。「花火」というか、スタンドプレイでもそれなりの結果はあげられる。しかし、中長期的に業績を維持することは、そう簡単ではない。

常に相手の立場にたち、相手がよかれと思って対応し、その結果、自分にもメリットのおすそ分けに預かれる、というクライアント・ファーストの姿勢を貫かなくては、中長期的に安定した取引関係は築けない。まさにここにおいても、市場原理の持つ「見えざる手」の公正さが働いているのだ。結果、相手も「このヒトにお願いしてもダメだったのなら、誰にお願いしてもダメだろう」という安心感を持ってもらえる。まさに、ある種の保険としての存在感まで得られるのだ。

では、なんのために、「官」においては定期異動が制度化されているのだろうか。それは、「官」の組織論の基本を考えてみればすぐにわかる。「官」の組織の基本は、「無責任の制度化」にある。すなわち、定期異動もまた、無責任組織を確立するための制度の一つと考えねばならない。具体的には、個人と地位を切り離し、人格を持たず責任の取りようがない「イス」の方に責任を負わせ、個人に責任がこないようにすること。さらには、組織内でコロコロと立場が入れ替わることで、特定の責任を感じることがないようにすることである。

かくして、組織外の人間からすると、問題があったとき責任を問おうにも、誰に対しどのように責任を追及すればいいか、極めて見えにくい「鵺」のような体制ができあがる。特定の人間が、長期に渡って同じポジションについていたなら、在職中の責任は誰にも明白である。だからこそ、民間では、長期に渡って同じ仕事をしているヒトは信頼されるのだ。不動産屋や貸金業の免許には、何回更新したかが、番号のカッコ内に表記されているが、「(1)」の業者は、基本的に信頼されにくいことが、それを示している。

さて、この官の定期異動制度が、別の意味で問題を起しているのが、教育の現場である。本来、教育者たるもの、少なくとも同じ生徒に対しては、一貫した教育を行い、その指導結果に責任を持たなくてはいけないはずである。しかし現在公立の学校においては、この官の定期異動システムがネックとなり、2〜3年学校間で異動してしまう教員や管理者も多い。これでは、生徒の在籍期間より短いことになる。

それで、キチンと生徒を教育できるワケがない。少なくとも私立の学校においては、その学校に十年、二十年と勤めつづけている教員が多い。現在、教育においては「私立優位、公立劣位」が明らかだが、その一番の要因は、この定期異動制度にある。同じ生徒を卒業まで見届けられない状態では、マトモに人間として育て上げることは難しい。定期異動制度が、もともと無責任組織を構築するためのものである以上、学校もまた無責任組織になっているのだ。

現在言われている教育問題の中でも、学校側に要因のある問題のかなりの部分が、この「官の定期異動制度」に起因している。教員は、地方公共団体に勤めているという意識はあるかもしれないが、「その学校」に勤めているという意識は薄い。「その学校」に勤めている、という意識のない教員が、その学校を愛する精神を持ったり、その学校を「良い学校にしよう」というマインドを持つハズがない。これこそ、教育改革の第一歩として取りかかるべき問題である。



(06/04/21)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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