「団塊Jr.世代」の著作権意識






最近、ファイル交換ソフト「ウィニー」が引き起こした事件が、いろいろと問題になっている。そもそも、この手のソフトは、明らかに「よこしまな目的」を持って利用されていることがほとんどであり、ある種「自業自得」とも言えるのだが、図らずも日本人の著作権に関する意識が、相変わらず低いことを浮掘りにした格好である。一時は多少改善された感もあったのだが、けっきょくなにも改善されていない、ということだ。

もともと日本では、著作権意識がひくく、著作権を無視する傾向が強かった。パクり放題、コピーし放題。作る側も、使う側も、同じ穴のムジナである。一旦は改善されたはずのこの傾向は、いわゆる「団塊Jr.世代」以下の若い層が、著作権の消費者として存在感を高めてくると、またぞろ顕著になってきた。この世代の著作権意識は、その上にあたる「新人類世代」に比べて、明らかに低い。その理由をいくつか考えてみよう。

まずは、親の影響である。もともと親の団塊世代自体、まだ著作権意識が低い時代に育った。団塊世代の青春時には、「エアチェック」などということが公然と行われ、その「結果」を交換し合ったりしていたことは、記憶に鮮烈だ。もっというと、団塊世代は、日本がまだ貧しい時代に育ったため、そもそも「所有権」に対する意識が曖昧なのだ。したがって、「オマエのモノはオレのモノ」「みんなのモノは、オレのモノ」意識が強い。

よくいえば、社会的リタラシーとしての共同体指向が強い世代、ということになるのだろうが。いずれにしろ、「これは誰のものか」ということを、ほとんど気にしないのが特徴だ。これが、親子を問わず共有意識となっている。団塊世代と団塊Jr.世代の母親と娘で、ファッション性の高い衣類やグッズを共用することがよく行われているのも、この表れということができる。親子が「群れて」いる団塊の家庭内で、著作権がないがしろにされていることは、想像に難くない。

次に、この世代では「情報」がコモディティー化している点が上げられる。団塊Jr.世代では、情報は、空気や水とならぶ、生活の「三大コモディティー」である。情報とは、特別な価値を見出せるものではないし、ましてや金を払ってまで手に入れたいものではない。そういう努力をする対象ではなくなっている。高原の空気をいくら吸っても、清流の水をいくら飲んでも、金を払おうと思わないようなものだ。

さらにもう一つ、大きな理由が控えている。それは「団塊Jr.世代」は、「純粋消費者指向」が強く、「クリエイターは、自分たちとは別人種」だという自己認識を持っている点である。これは団塊Jr.世代が、「おたく」ではなく、「オタク」を生み出した理由と同じである。一世代前の「新人類世代」は、逆にクリエイター指向が強いのが特徴だ。このため。クリエイターの権利や立場を、自分の立場と重ねてとらえやすい。その分、比較的著作権に対するマインドも高い。

団塊Jr.では、そういう視点がない。とにかく「違う人たち」なのだ。だから、クリエイターが困ろうと、権利を侵害されようと、他岸の火事であり、自分には全く関係ない問題としかとらえられない。これには、「自分と違う人種に対しては、感情を移入できない」という習性も、大きく影響している。自分の仲間でない限り、痛かろうが、苦しかろうが、全く知らん振りなのだ。

そもそも、こういうバックグラウンドがある以上、団塊Jr.世代の著作権侵害は、ある種確信犯である。いかに「悪いことだ」と強調したところで、あまり改善は期待できない。もし、筋の通った真っ当な行動をさせようというのなら、「キチンと対価を支出すると、なにか良いことがあるよ」という、ギブアンドテイクが必要だ。そうでもしない限り、意識が改まることはない。この数年、ソフトコンテンツ関連の支出が減少しているというのは、なにも所得減だけが原因ではないのである。



(06/05/05)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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