科学信仰の終焉






情報行動に冠する調査データをコーホート分析すれば、すぐにわかることだが、今生活している人々についていうならば、情報のリタラシーは、世代により大きな違いがある。これは情報リタラシーが、はじめて自ら情報コンテンツやメディアと接するようになる時期の情報環境により「刷り込まれる」ものだからである。このため、世界的に情報環境が大きく変化し、情報化が進んだ20世紀後半に生まれ育った人々は、この「刷り込み」が世代により大きく異なることになる。

この影響は、生活意識や行動のいろいろな面で現れるが、最も顕著で、なおかつ重大な影響を持つものとして、「真実」のよりどころがある。この問題については、すでに何度も取り上げているが、現代日本においては、テレビ以前の世代と以降の世代で、「真実」のとらえ方に大きな違いがあることが見て取れる。具体的には、「団塊世代」に代表される50代以上の「テレビ以前」世代と、「新人類世代」「団塊Jr.世代」に代表される「テレビ以降」世代ということになる。

「テレビ以前」の世代においては、基本的に「真実」とは、世の中に客観的に「一つだけ」存在するものであった。真実か虚偽か。それは、常に二者択一的な存在として捉えられた。場合によっては、イデオロギー的に真実が一つの軸として捉えられることもあった。この場合は、その軸に沿って「+」か「-」かという対立は起りうるが、軸そのものは、どちらのサイドにとっても「ぶれないも真実」として共有されている特徴がある。

いずれの場合も、各個人の関与を超えたところに、「社会的な真実」が存在している、と固く信じているところが特徴である。したがって、この「社会的な真実」が具体的にはどういうものなのかを知ることに対しては、労力を惜しまない。ジャーナリズムがジャーナリズムとして存在し得たのも、この「社会的な真実」という神話が信奉され、それを提供する役割としてジャーナリズムを求めたからである。

しかし「テレビ以降」の世代にとっては、こんな「社会的な真実」など存在しない。世の中に一つ正しいものがある、と信じているワケでもないし、正しい軸が一つある、と思っているワケでもない。彼ら・彼女らにとっては、「真実」とは、極めて私的かつ主観的なモノなのだ。好きか嫌いか。気持いいかそうでないか。楽しいかそうでないか。自分にとっての「真実」とは、まさに、好きなモノ、気持いいモノ、楽しいモノに他ならない。

さて1990年代以降、アメリカにおいては、キリスト教原理主義を主張する人々の活動が盛んになっている。日本でも有名なものとしては、進化論を否定する「反ダーウィニズム」の立場にたち、旧約聖書に記された天地創造を「真実」として主張する活動がある。この主張は、日本では、特に団塊世代以上の層には、違和感をもって受けとめられている。それは、その層が「科学万能史観」を持ち、科学的なことこそ唯一の「真実」と信じているからだ。

だが今や、そもそも真実が主観的あり、人間の頭数だけ存在する時代だ。「科学」が「真実」で、「聖書」が「虚偽」とする考え方自体は構わないが、どちらかだけが正しく、もう一方は間違っている、という切り分けは、何ら意味を持たない。そもそも、「真実」が主観であり、相対的な嗜好でしかない時代に、絶対的な真実の存在を前提とする、「自然科学至上主義」はそぐわない。この問題も、「何を信じたいか」という好き嫌いの問題として捉えるべきなのだ。そもそも、科学は万能ではないし、科学的なことがすべて正しいわけではない。

科学の進歩が、人類に幸せをもたらすわけではない。それを、我々はすでに充分知っている。核兵器に代表される大量破壊兵器や、環境汚染は、まさに科学が引き起こした災禍である。科学が発達していなかった古代や中世の方が、現代より余程幸せだったかもしれない。これを見ても、「科学的だから正しい」とする主張には、さして根拠がないコトはよくわかる。ネガティブな見方をすれば、科学とは、欲望を生み出し、不満と妬みを人々の心に刻み込んで行くモノである、ということもできる。

科学原理主義、真実原理主義にとりつかれたヒトほど、手におえないものはない。これからの時代、幸せになるなら、「真実原理主義」を捨てることだ。そして、「真実原理主義」と分かちがたい共犯関係に陥っている科学を信奉じるより、より人の心に根ざした宗教を重視すべきである。しかし、その場合でも大切なことは、価値観を強要しないで、共存することである。これが可能なのも、科学より宗教が優れている点であるのは言うまでもないだろう。



(06/05/26)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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