経済政策





1980年代以降、アメリカを中心に、経済学者が経済政策策定の場で活躍することが顕著になっている。その結果、経済政策自体が、新古典派だの、ネオケインジアンだの、策定に当って活躍したエコノミストの主張を以て語られることが多い。しかし、そもそも経済学というのは、経済政策立案のためのメソトロジーではない。ここに、経済学者の活躍や貢献の限界がある。

経済学は、それが「学問」である以上、「なぜ、そうなるのか」という現実を記述するものである。政策立案のためには、現状のボトルネックを発見し、それに対するブレークスルーを提案することが必須である。しかし、学問はボトルネックの発見にこそ役立つかもしれないが、ブレークスルーをもたらすものではない。経済学は、ソリューションを提供するための、将来的なデザインやプランニングの手法ではないからだ。

そもそもアカデミズムには、二つの流れがある。理系でいうならば、理学と工学という流れである。原理と応用といってもいいし、理論と実践といってもいい。この両者は決定的に目的性が違う。理学は、まさに「理由」を論理的に検証するものである。たとえば、理学部で流体に関する研究をしているヒトは、なぜ飛行機が飛ぶのかとか、なぜこっちの飛行機の方が速度が出るのかとか、説明することはできる。

しかし、だからといって、理学部的な思考だけで、飛行機そのものを設計できるわけではない。一方工学においては、結果をもたらすことができれば、理由はいらない。たたき上げの経験則の集大成であっても、性能の良い飛行機が作れればそれでいいのが工学の本質だ。理由を説明したり、分析したりすることは必要はなく、ただ、経験則として得られたノウハウを、いつでもどこでも再現可能なように「体系化」することが目的なのだ。この「学問の二つの流れ」という構造は、常にどの分野でもある。

医者と医学者の違いも、この二つの流れで考えられる。経験豊富な臨床医と、知識の豊富な医学者がいたとする。患者の病気を直すには、学問的知識より、経験知の方が重要だ。患者にとっては、なんで病気になるか、なんで直るかを知らなくても、的確な処置をしてくれることが大事だ。医学の進歩のためには、経験知をジェネリックな知識体系へと昇華する、医学者の役割も大事だが、それは患者からは関係ない。役割が違うのだ。


さて、マーケティングを含む経営学は、経済学者からすると実学であってアカデミックな学問ではない、と言われ続けてきた。この関係は、まさに経済活動を対象とする社会科学の中で、理学と工学という、「二つの流れ」の違いとして捉えられる。事実、同じことは、自然科学の分野では、理学と工学の間で言われ続けてきた。たとえば、アカデミックな価値を重んじるヨーロッパでは、大学では、理学系に比べて工学系の権威が低いといわれている。

最近、「新しい経済学」と呼ばれる分野がある。純粋理論にもとづく経済モデルと中心とした、全てのプレーヤーが合理的に行動するコトを前提とした過去の経済学とは違い、完全合理的でない人間が主体として行動するコトを前提として、経済活動をモデル化しようという体系である。しかし、こんなことは、マーケティングでは、当然のように昔から行われていたことである。だからこそ、心理学の手法を取り入れ、各人間の持っている「個別性」を変数に取り入れる方法論を開発してきた。

このように、経済学とは理学系であり、経営学こそが工学系ということになる。そして、ソリューションを提供するための、将来的なデザインやプランニングの手法とは、まさに工学の対象領域なのだ。経済政策の立案をするなら、それは「経済学」ではなく、「財政工学」とでも言うような、工学的な発想にもとづく体系でなくてはおかしい。そういう意味では、マーケティングとは、まさに「販売工学」である。どうやら陳腐化したマーケティングの手法も、経済政策立案という場においては、まだまだ使えそうではないか。



(06/06/02)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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