正々堂々






日本企業がグローバル企業として業績を上げるようになって久しいが、いまだに「日本の社会からは、グローバルに活躍する人間が生まれにくい」という意見はよく聞かれる。しかし、この言い方は正しくない。「生まれにくい」ワケでも「生まれない」ワケでもない。それなりに、そういう人材は存在しているし、その確率は決して諸外国と比べて低いワケではない。この面では、なんら劣っていないし、卑下する必要もない。

問題は、そういう「生まれ・育ち」ではなく、「グローバルに活躍できる人間が、国内ではあまり活躍できない」という点にある。「グローバルに活躍できる人間」といえば、「自立・自己責任」な人間ということである。日本の社会や組織は、そのほとんどが「甘え・無責任」の実現のためにある。そしてその基本ルールは、いかに「寄らば大樹の陰」ができるか、いかに責任を曖昧にできるか、という視点から作られているモノである。

「甘え・無責任」のための組織といえば、いつも言っているように、その最たるものは「官」の組織である。「官界を目指す秀才」というのは、最も巧妙な「甘え・無責任」教の信者なのだ。彼らの知識と弁舌は、自分を正当化する方便を構築することと、目立たず、責任もないままおいしい汁が吸える「スキ間」を見つけ出すことに、フルに駆使される。過去、秀才中の秀才たちが、これを繰り返してきた「資産」の蓄積こそが、官の利権の源泉である。

しかし、こういう「タテマエの陰で、コソコソとニッチを漁る」ようなやり方は、日本社会だからこそ成り立つ。タテマエとホンネの二重構造は、アジアの国々ではある程度見られるものの、世界全体からすれば「少数意見」である。正々堂々とフェアプレイで競うことこそ、グローバルに通用するルールである。要は、「甘え・無責任」を基本とする日本社会自体が、世界の中でも異端ということなのだ。

異端であっても、それなりに規模があれば、自律的に存在が可能になってしまう。江戸時代、鎖国政策が成り立つとともに、その結果として独自の経済発展と経済力の蓄積が可能となり、結果、明治以降「列強」の一部とて振舞うことができた歴史が、それを示している。こういう「魔境」は、外部に対して、異常なまでの粘り強さを示す。社会の外側にある「異文化」も、内部に取り込む際には、強力に換骨奪胎し、涼しい顔で自分のものにしてしまうのだ。

ステーキを「照り焼きステーキ」にし、ご飯と味噌汁と小鉢をつけて、和食としての「ステーキ膳」にしてしまう。今までは、外部からどんな「文化」が入ってきても、この「同化力」により「甘え・無責任」の楽園としての構造を守ってきた。しかし、21世紀の人類世界は、もはやそれを許さないほど、均一化が進んできた。その最たる例が、「ホリエモン」や「村上ファンド」の事件であろう。

彼らがやったこと本質は、結局、昔から株式市場にはつきものの、「アコギな取引」に他ならない。ヨコモジを駆使し、最近になって海外から導入された新しい概念を援用しても、中身は、明治時代から、いや商品取引に関連してなら江戸時代からあった「手口」だ。というより、この手の手口は、新しい概念や手法が出てくるたびに、表ヅラだけを一新して、何度も繰り返されるものなのだ。

彼らは、時代の寵児でも、金融界の新しい存在でもなんでもない。まさに、グローバルなやり方を換骨奪胎して、もっとも古典的な中身にかぶせただけである。ここで思い起こして欲しいのは、彼らのメンタリティーである。ホリエモンは、その学生時代の経歴を見る限り、世が世なら間違いなく公務員試験を受けて高級官僚を目指していた層だ。村上氏にいたっては、筋金入りの元官僚である。まさに、この「換骨奪胎」こそ、秀才達の最も得意とする手口なのだ。

これらの事件こそ、日本社会の中にも、「官」に代表される「秀才メンタリティー」では通用しない部分が生まれているコトを示している。状況に踊らされず、常に正々堂々と勝負ができるかどうかは、生まれ持った人間性の問題だ。秀才のように、勉強し、努力したからどうなるというものではない。天才は間違いなくいる。それを、どう生かすかがカギなのだ。姑息に立ちまわる人間だけがいい思いをする社会を脱すれば、おのずとグローバルに通用する人間が評価される環境は生まれる。



(06/06/09)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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