お役所仕事






理由はいろいろ違うのだが、最近、地方自治体(特別区)の行っている「サービス事業」に接する機会が多い。こういう事業は、使わないヒトにとって、一切接点がないのだが、知るとビックリするほど多岐に渡った事業が行われていることがわかる。それぞれ恩恵を受けているヒトにとっては、なくてはならない事業も多いと思う。また、そこに従事しているヒトも、個別には極めて職務に忠実に働いている。こういうミクロ的な視点においては、あまり問題があるようには思えない。

しかしここで重要なのは、「そもそもその事業を公費で行うことの是非」である。果たして、その業務は税金で丸抱えにするのがいいのか。実際に行われている業務に、コスト的な無駄や最適化の余地はないのか。こういうマクロ的な視点からは、その事業そのものの吟味がなされていない。その分、個別業務の部分最適化が進んでしまう。こうなると起るのが、お決まりの「手段の目的化」である。やっているヒトにとっては、業務そのものの遂行が目的になってしまうのだ。

まず第一のポイントは、誰が費用負担するかである。まさに郵政事業の「民営化」が問われているように、公的なサービス事業だからといって、受益者負担が成り立たないわけではない。実際、役所の最も公的な業務の一つである「各種証明書類の交付」においては、実費を取るではないか。たとえばどの区市町村でも、住民の集会場や小ホール、図書館といった施設をもっている。このような施設を利用するときは、大概無料である。

だがこの手の施設は、使うヒトと使わないヒトがはっきりわかれているところに特徴がある。したがって、受益者に応分の負担を課することができないワケがない。使わないヒトの負担で、一部の利用者だけがメリットを享受できるというのは、どう考えても「不公平」である。個人的にその理念が好きか嫌いかはさておき、「全額公費負担による不公平」というのは、そもそも今の地方自治がよって立っている理念と矛盾するではないか。

受益者負担の原則によって、その分、広く遍く徴集する地方税そのものを減らすことが可能になる。ハコモノ行政で作ってしまった施設は、壊すのにもコストがかかってしまうが、だからといって、その維持運用の費用まで丸抱えにするのは、まさに「タメにするお手盛り」以外の何物でもない。この手の施設や業務の維持運営を独立採算化するだけでも、相当な支出削減は可能だ。

また、これによりコストの基準が明確化する点も見逃せない。自分で採算を考えることは、コスト意識を促進することにもつながる。利用に見合ったレベルに経費を押さえるとか、利用を促進して売上を拡大しサービスを充実させるとか、予算主義の時代とは違って、費用対効果の基準ができる。これがあってはじめて、自立的な判断とリスクテイキングで事業を行うという、民間では当り前のことが可能になる。

中央官庁レベルでは、昨今の行政改革の流れの中で、現業部門の独立行政法人化が進んだ。まあ、これは高級官僚自身の利権には触れないので、それなりに推進されたということもあるのだが、結果は結果である。実際、博物館・美術館では、観客動員に積極的になるとともに、いろいろなイベントにタイアップするカタチで、そのスペースを活用する動きが目立ってきた。国立大学では、学生数の減少という流れの中で、積極的なリクルーティングを行うようになってきた。

難しく考えなくても、やればできるのだ。現場の係員の人たちには、確かにモラール的に問題のあるヒトがいることも確かだが、愚直に仕事を処理しているヒトが多いことも確かだ。しかし、その業務自体が外部的には無意味で評価されないものであるなら、賽の河原の石積みである。これでは、壮大な無駄遣い以外の何物でもない。受益者負担でも、ハコを公費で持っている分安くできるなら、福祉的な意味でも問題はない。問題は、税金も払わずに、公的サービスの享受ばかりしている住民という、「既得権者」の方にあるのだ。



(06/06/23)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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