上が決めたこと






地方公共団体の現場にいる方々がよく使う表現に、「上が決めたこと」というのがある。要は、ルールそのものは、キャリア組なり、中央官庁なりが決めたものであり、自分たちには関係ない、というニュアンスである。キャリア・ノンキャリアをまとめた行政機構全体が、「甘え・無責任」な民間人からすると、「お上」として責任転嫁の対象になってるが、その「お上」の中にも、さらにお上があるらしい。

さすがに、無責任組織の権化たる役所のこと。責任を転嫁したつもりが、一皮向くとさらに転嫁する先があるという、「無責任のマトリーシュカ」になっている。キャリアは自分たちの間で責任をタライ廻しにして、責任の所在をウヤムヤにしてしまう。ノンキャリアはキャリアに責任を押しつける。感心してもはじまらないのだが、全くもって「無責任のための組織」ということに関しては、芸術的ともいえる精巧さである。

さてここで起ってくる問題は、現場の方々にとっては、組織への参加意識が皆無になってしまうということである。組織とは、その成員があってはじめてなりたつものである。しかし、お役所の人々にとっては、組織の成員であるはずの自分がいようがいまいが、組織がそれ自体として存在しているかのようである。実体のない「組織」を自立させて、そこに責任を押し付けようということなのだろうが。

こうなると、現場で起りがちないろいろな問題が、必然的なものであることが見えてくる。ルールを形式的に運用する、杓子定規な対応。これも、仕事そのものを、自分たちが主体的に取り組むモノとして捉えることがなく、「上が決めたこと」をその通りこなす分には責任がこない、と考えているからこそ起る。機械の部品に責任はない、ということなのだろうが、実はトラブルの究明の中で、どの部品が原因になったかは、容易に追求することができるのだが。

その一方で、これまたよく見られる「合法的怠業」が起る。どうせ自分たちが決めたことではないのだから、オレたちにやらせる方が間違っている。自分がやらなくても、誰かがやるだろうし、それをやらせるのは「上」の責任だ。とばかりに、なるべく腰を重くして、ボランタリーに取り組まない方が得だ。もし見つかって注意されたら、それは運が悪かった、ということになる。これもまた、「上が決めたこと」であって自分たちには関係ない、というロジックにおいては、全く同じである。

しかし、民間ではそうは行かない。組織は自分たちが主体的に参加するものだし、そう取り組まなくては給料は貰えない、というのが、基本的な組織観である。もちろん、甘い汁を吸えるだけ吸おうという、労働組合のような考え方もあるが、それにしても、会社がある程度以上繁栄してくれなくては、吸うべき汁自体が枯渇してしまう。最低限の愛社(愛組織)精神と、業務取組への努力さえ持っていない、というコトはあり得ない。

これがあるからこそできるのが、「カイゼン」である。確かに最初のマニュアルは、「上」というか、本社なり管理者なりが決めたルールには違いない。しかし、それを現場がこなして行く中から、よりやり方を洗練させ、効率よく良い業務ができるようにしてゆくことは、自分が主体的に組織の構成員であることを意識し、組織を活性化することに対し、喜びと充実感を持っていなくてはできないことである。

80年代の国鉄民営化が成功したのは、労働者としては「甘え・無責任」の権化と化していた国鉄職員も、鉄道マンという仕事に対する最低限の誇りと自信を持っていたがゆえに、そのプロフェッショナル意識をテコに、もう一度主体的な参加意識を構築できたからである。まさに、民営化の本質とは、会社組織にすること以前に、主体的に参加する組織へと意識を変えることである。では、郵政職員にそういうテコがあるのか? 教員には? 地方公共団体の職員は? こう考えてゆくと、ことの成り行きは容易に読めるだろう。


(06/06/30)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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