「死ぬのが恐い」ヒト






世の中には、「死ぬこと」を極度に恐れているヒトがけっこういる。なぜ死ぬのが恐いかと、直接本人に聞きただせば、それなりに「格好をつけた」理由を述べるだろう。しかし、ホンネをつき詰めていえば、「現世に未練たらたらだから、今死にたくない」ということになる。つまり「まだヤリ残したことがある」とか、「もうちょっと生きていればもっといいコトがあるんじゃないか」とか、いたってミミッチイ理由だ。

しかし、だからといって、もうちょっと生きていても、「いいことに出会う」可能性や「ヤリ残した夢が叶う」可能性はほとんどない。確率論を考えてみればすぐわかることだが、閾値になる期間を過ぎても「当り」にならなかった場合、それ以上いくらそのゲームをやり続けても、「当り」がくる確率はどんどん減ってくる。それと同じで、2〜30年人生を生きていれば、出会うものには出会うし、それまでに出会っていなければ、それ以上いくら続けても出会う可能性はほとんどない。

もちろん、確率現象だからこそ、例外は常に存在する。だから「苦節数十年」にして夢が叶うというヒトもいないわけではないが、実は極めて例外的なのだ。しかし人間、「溺れるものは、藁をもつかむ」のことわざ通り、貧すれば鈍する。苦境に追い込まれて可能性がなくなればなくなるほど、ほとんどない一発逆転の可能性にハマり出す。これは、ギャンブル中毒者が、引き際を逸して、どんどん泥沼にハマっていくのと同じだ。

そういう意味では、順風満帆で来ているヒトは、一般に「今死んでしまっても、未練はない」と思えるのだ。いいかえれば、これこそが「成功感」なのだ。逆にいえば、常に「今が最高」と思えることをもって、「成功」というべきである。実は、ここにこそ本質が潜んでいる。実は、「成功」とは、自分自身の心の持ちようで決まることなのだ。なにも、外的な評価により決まるものではない。つまり、「成功感」を持てないヒトは、自分で持つ努力をしていないということになる。

「死ぬのを恐れない」といえば、その真骨頂はなんといっても「武士道」だろう。サムライは、なんでこういう境地に達せるのか。まず一つは、自分自身の評価を、自分の内面から行う点である。これができるのは、儒教的な意味で、自分を磨き、研ぎ済まし、価値の基準を自分の内面に置くからである。まさに、「自立・自己責任」。他人の猿真似で責任を曖昧にするのではなく、自分のやったことは自分としてケジメをつける。これは、西洋の「ノブリス・オブリジェ」に通じる、有責任階級としての基本である。

次は、現状の自分に対し、高望みをせず満足すること。これこそ、「知足」の精神である。今の状況をそのまま受け入れ、それが天から自分に与えられた運命であり、宝物なのだと思い切ること。これは、禅など武士の精神的バックボーンになっていた、仏教的なモノにも通じる。この二つのバックグラウンドがあったからこそ、今、自分が置かれている状況を全て受け入れ、それが自分にとって最も望ましいものである、と信じることができるのだ。

この奥義をマスターすれば、決して「死ぬのが恐い」コトなどなくなる。「死ぬのが恐い」ヒトからすると、それは「成功者」だから言える、ということになるのだろう。しかし、それは違う。そういうヒトたちは、他人を基準に「成功」「不成功」を切り分けようとしているから、「不幸」になるし、高望みをするようになる。そういうヒトたちの思惑とは違い、世の中には「成功者」と「不成功者」という区分けがあるわけではない。

あるのはただ、「自分の内面に価値基準を置き、他人と比べることなく、今の自分に満足することを知っているヒト」と、「常に他人と自分を比較し、自分にないものばかりあげつらって、現状に不満を持ちつづけるヒト」という違いだけである。そうなれば、話は早い。他人を見ないで、ひたすら現状の自分に満足すればいい。これさえできれば、幸せはやってくる。もし、自分の力だけでその転換ができないときにはどうするか。答えは簡単。そもそも宗教というのは、現状に満足し、妬みを持たないためにあるモノではないか。


(06/07/07)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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