「階層」の意味するモノ






20世紀に入って大衆社会化が進むとともに、「平等」という幻想が世界をおおいだした。元来、大衆社会における「平等」とは、「一人の大衆は、全体から見れば取るに足らない存在である」からこそ、大衆社会の中では「誰もが、同じ穴のムジナ」という意味であった。しかし、この「平等」感が、民主主義や人権といった思想が広がるとともに、我田引水のごとく拡大解釈されることになる。

そこにまず登場したのは、「権利の平等」である。しかし、その権利にも二種類ある。権利とはいっても、「機会の平等」として、「誰もがエントリーできる権利を、等しく持っている」という意味なら、これは理解できるし、当然の主張ということができる。いわれもない理由で、エントリーすること自体を禁じたり、妨害したりするのは、当事者にとって不当であるばかりでなく、社会としての全体最適を実現する上でも、損失が大きいからだ。

しかし「機会の平等」の裏には、常に「評価の自由」が伴う。機会を与えている側からすれば、平等にチャンスを与えていればこそ、その結果に対しては、どういう基準でどう評価しようと、誰も文句をさしはさめない。つまり、差をつけていいのだ。いや、差をつけなくてはならないからこそ、機会を平等にし、差が明確にディスクローズされることが必要になる。平等にチャンスを与えたからこそ、「負けても文句は言いっこなし」ということなのだ。

ところが、ここに大いなる勘違いが起る。負けた側は、能力に劣り、結果として成果が劣っていたからこそ負けたのだ。状況によっては勝つ可能性のあるぐらい、能力が均衡しているヒトならば、ここで自分が負けた理由を悟ることができる。こうなれば結果を反省し、一念発起することもできる。「機会の平等」のいいところは、このように、能力が同じレベルならば、次のチャンスへのモチベーションになるところにある。

しかし、圧倒的な能力差があるときにはどうなるか。そこでは、当然「いわゆるバカの壁」現象が起きる。つまり、能力が劣っているからこそ、自分がなんで負けたのか、理由がわからない。自分が負けた理由わからないままでは、何度挑戦しても失敗するだけだ。こうなると、当然「なんで、オレが負けるんだ」と憤り出すことになる。そして困ったことには、世の中には、こういう能力のないヒトの方が数多いのだ。

ここで主張されるのが、悪い方の平等意識、つまり「結果の平等」である。機会が平等にあったのだから、勝ち負けはさておき、参加者を全て同じように扱え、という主張だ。まあ、勝者には余裕があるので、負けたヒトにも「残念賞」や「参加賞」的なモノを出すことには異論はないだろう。しかし、「入賞と参加賞を同じにしろ」というのでは、そもそもそこで評価選別が行われること自体が、無意味になってしまう。

ところが、巣に入ってきたスズメバチを、ミツバチが群がって憤死させてしまうように、数の力というのは恐ろしいモノ。構造的に、勝者より敗者のほうが多くなるのは必然ゆえ、「結果の平等」を主張するヒトの方が常に多い。こうなると、「評価をチャラにする」圧力は、あらゆる評価の局面で起ることになる。かくして、大衆社会では、評価を否定する「結果の平等」が跋扈することになる。

しかし人間というのは、やはり学習する生き物らしい。大衆社会も百年続くと、「結果の平等」ばかりを声高に主張しても、決しておいしくないことが見えてきたようだ。その一つは、「寄らば大樹の陰」でスネかじりしようと思っても、その「すがるべき大樹」が枯れてしまったら元も子もない、ということが見えてきたことである。社会主義、共産主義の国家が経済的に破綻したのも、要はスネのかじり過ぎにある。

もう一つは、「参加賞」を得るために無駄に使うエネルギーも、バカにならないことに気付いたことである。結果的になんか貰えるなら、エネルギーを使って試合に参加して貰うより、なんにもしないままもらえた方がずっと楽である。これなら、平等を主張しなくても、勝者に大勝してもらって、魅力的な参加賞を出してもらったほうがいい。かくして、一部の勝ち組と、大勢のおこぼれに預かる大衆という階層化が起ったのだ。このように、これは、文字通り「近代」を脱した社会の必然といえる。


(06/07/14)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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