降りる人たち






昨今、洋画では「吹き替え版」の上映回数が多くなっている。シネマコンプレックスが定着し、人気の映画は複数画面で上映されるようになり、選択の範囲が広がった、という面もないではない。しかしかつては、吹き替え版といえば子供か老人向け、というのが常識だったが、最近では、一般の若者も好んで吹き替え版を見るようになっている。確かに、「ラクに楽しめる」という意味では、吹き替え版の方に軍配が上がる。

しかし、昔は楽だからこそ、吹き替え版を見下すような気風があった。その結果、あえて字幕版を楽しむヒトが多かった。特に、昔の若者は格好をつけたがる気持が強く、本当は吹き替え版が見たくても、見栄で字幕版を見たものだ。しかし、いまどきの若者は、そんな格好つけなどしない。苦労して格好つけるより楽できる方がいい、と、あっさり割り切ってしまうのだ。

街角で、ヘタりと座り込んでいる若者もそうだ。そりゃ、格好つけてシャキッと立っているより、格好など気にせず、座っちゃった方が疲れないし、エネルギーもいらない。見栄がなくなってしまえば、日本の大衆は苦労のある選択肢は選ばない。そういう意味では、かつての日本社会の特徴だった「無理な横並び競争」から、今や降りるヒトが続出している。このところ話題になっている、一億総中流の崩壊や階層化の進展も、こういう文脈で考える必要がある。

かつての「一億総中流」は、自分の内側に価値の規範を持ち得ない人々が、互いに周りの人達が何をしているか、何を持っているかを気にするが余り、自分の「分」を越えても周囲との同化にドライブがかかったことから生まれた現象である。「自分が必要とするもの」ではなく、「となりが持っているかどうか」によって消費財を購入する。多くのヒトは、当然そこで「無理な背伸び」をすることになる。

本来なら、こんな本末転倒は、経済的に成り立たないはずである。しかし、高度成長期という「神風」が、つじつま合わせをしてしまった。右肩上がりで成長する経済に合わせて、個人の所得も右肩上がりで増加することが約束された。この結果、バランスの取れた購買力を超えた分も、ローンやクレジットというカタチで、「取らぬ狸」であるはずの将来所得を担保に消費に廻すことができた。これが、ある種のバブルとしての「総中流」を生み出した。

この構図自体は、元来、安定成長となった80年代以降では成り立たない。しかし、日本特有の、問題の「先送り」により、終身雇用・年功給という日本的賃金体系は温存された。その「先送り」は、バブル崩壊以降も続き、いわゆる「失われた10年」となったことは記憶に新しい。この構図が成り立っている間なら、「一億総中流」意識はすたれることはない。かくして、先進国の経済のあり方が転換したドルショック・オイルショック以降、20年近く延命されることになる。

もちろん、「中流」のメルクマールというか、「横並びの中身」は時代毎に変化している。高度成長期には、3Cに代表される「文化生活」的な小さな幸せだったものが、バブル期には当時全盛を極めた「そごう」の内装ごとく成金趣味的に派手になり、バブル崩壊後はそれなりに控え気味にはなっていた。しかしそのどれを取っても、多くのヒトにとっては、周りに合わせるべく「背伸び」を必要とするものである点においては共通であった。

しかし、それが金融危機以降転換した。この期に至り、古典的な日本的賃金体系は、ついに維持不可能なものとなった。それとともに、「背伸びしたくてもできない」層が歴然と現れてきた。こうなると、横並びから「降りてしまう」人々が続出する。昨今いわれる「階層化」も、ある面から見れば、「無理な横並びをしなくなっただけ」ということもできる。今後もこの傾向は続き、「身の丈に合わせて、格好をつけない」ヒトが増えると考えられる。

すると、何が起きるか。もともと周りを気にして、周りに合わせたがる人たちである。みんながみんな「降りていい」ということに気付きだせば、あとは早い。そこに現れるのは、「背伸びしたところでの横並び」、ではなく、「身の丈そのままでの横並び」である。今は過渡期だからこそ、階層が分離しているように見えるかもしれない。しかし、ゆきつく先は一つ。そういう意味では、「一億総下流」である。中流でも下流でも、「となりと同じ」ことで安心する大衆心理は、何ら変わりはしないのだ。



(06/07/21)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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